以文本方式查看主题

-  新战国联盟论坛  (http://newtenka.cn/bbs/index.asp)
--  『琵琶湖』  (http://newtenka.cn/bbs/list.asp?boardid=3)
----  [转帖]哪个日语达人翻译下?  (http://newtenka.cn/bbs/dispbbs.asp?boardid=3&id=11160)

--  作者:诹访赖清
--  发布时间:2011-2-4 19:02:50
--  [转帖]哪个日语达人翻译下?

諸葛 亮(しょかつ りょう)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家?軍略家。字は孔明(こうめい)。

司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。

妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。親族として従父(叔父)の豫章太守諸葛玄、兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、魏に仕えた諸葛誕?諸葛緒?諸葛璋?諸葛虔?諸葛原(景春)らがいる。

コンテンツ:
1. 略伝
2. 評価
3. 『三国志演義』中の諸葛亮
4. 著作等
5. 家系
6. 脚注
7. 関連項目
8. 参考書籍

諸葛亮

蜀漢  丞相
出生 光和4年(181年)
不詳
死去 建興12年(234年)
五丈原
ピン音 Zhuge Liang(ジューガー?リァン)
字 孔明
諡号 忠武侯
別名 伏龍、臥龍(渾名)
主君 劉備 → 劉禅

1. 略伝
1. 1. 書生時代
琅邪郡陽都(現在の山東省臨沂市沂南県)が本貫だが出生地は不明。身長は8尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm、魏?西晋の頃の1尺は24.1cmで8尺は192.8cmになる)。その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉の諸葛豊で、父は諸葛珪。泰山郡の丞(郡の副長官)を勤めた人だが、諸葛亮が幼い時に死去している。生母の章氏も同様に幼い時に死去していたが、父は後に後妻の宋氏を娶っている。年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾、弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、他に妹がいる。後漢の献帝と生没年が同年である。

まだ幼い頃、徐州から弟の諸葛均と共に従父の諸葛玄に連れられ南方へ移住する。この時の行き先について『三国志』本伝では、従父?諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章太守に任命されるが、後漢の朝廷からは朱皓(朱儁の子)が豫章太守として派遣され、その後劉表の元に身を寄せたとなっている。これに対して裴松之注に引く『献帝春秋』では、朝廷が任命した豫章太守の周術が病死したので劉表が代わりに諸葛玄を任命したが、朝廷からは朱皓が送り込まれ、朱皓は劉繇の力を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は逃れたが建安二年(197年)に民衆の反乱に遭って殺され、首を劉繇に送られたとなっている。

その後諸葛亮は荊州で弟と共に晴耕雨読の生活に入り、好んで「梁父吟」を歌っていたという。この時期には自らを管仲?楽毅に比していたが、当時の人間でこれを認める者はいなかった。ただ親友の崔州平や徐庶だけがそれを認めていたという。また、この時期に地元の名士?黄承彦の娘を娶ったようである。これは裴松之注に引く『襄陽記』に見える話で、黄承彦は「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い諸葛亮はこれを受け入れた。周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し立てたという。これ以降、不器量の娘を進んで選ぶことを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになった。

1. 2. 三顧の礼
この頃華北では、建安5年(200年)に曹操が袁紹を打ち破って覇権を手中にし、南進の機会を窺っていた。劉備は袁紹の陣営を離れて劉表を頼り、荊州北部?新野(河南省南陽市新野県)に居城を貰っていた。

諸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、やっと幕下に迎えることができた。これが有名な「三顧の礼」である。裴松之の注によると、『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽を訪ね、司馬徽は「時勢を識るは俊傑にあり」として「臥龍」と「鳳雛」、すなわち諸葛亮と龐統とを薦めたという話が載る。また『魏略』には、諸葛亮の方から劉備を訪ねたという話が載っていたという。その後に裴松之自身の案語として、「「出師表」には明らかに劉備が諸葛亮を訪ねたと書いてある。それなのにこんな異説を立てるとは、実にわけの分らぬ話である」とある。

この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操?孫権と当たることを避けてまず荊州?益州を領有し、その後に天下を争うべきだと勧めた。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識に惚れ込み、諸葛亮は劉備に仕えることを承諾した。これを孔明の出廬と呼ぶ。

1. 3. 赤壁の戦い
建安13年(208年)、劉表陣営では劉琮が後継となることがほとんど決定的となり、劉琦は命すら危ぶまれていた。劉琦は自らの命を救う策を諸葛亮に聞こうとしていたが、諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。そこで劉琦は一計を案じて高楼の上に諸葛亮を連れ出し、登った後ではしごを取り外して、諸葛亮に助言を求めた。

観念した諸葛亮は春秋時代の晋の文公の故事を引いて、劉琦に外に出て身の安全を図るよう薦めた。劉琦はこれに従い、その頃ちょうど江夏(現在の湖北省武昌)太守の黄祖が孫権に殺されており、空いていたこの地に赴任する事にした。劉琦の兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な援軍となった。

同年、劉表が死去。その後を予定通り劉琮が継ぐ。諸葛亮は劉備に荊州を取れば曹操に対抗できるとすすめたが、劉備はこれに難色を示す。まもなく曹操が南下を開始すると、劉琮はすぐさま降伏した。劉備は曹操の軍に追いつかれながらも、手勢を連れて夏口へ逃れた(長坂の戦い)。

孫権陣営は情勢観察のために魯粛を派遣してきていた。諸葛亮は魯粛と共に孫権の下へ行き、曹操との交戦と劉備陣営との同盟を説き、これに成功した。劉備?孫権の連合軍は曹操軍と長江流域で対決し、勝利した(赤壁の戦い)。

1. 4. 入蜀
戦後、劉備たちは孫権?曹操の隙を衝いて荊州南部の4郡を占領した。諸葛亮は軍師中郎将に任命され、4郡の内の3郡の統治に当たり、ここからの税収を軍事に当てた。この頃、諸葛亮と並び称された龐統が劉備陣営に加わった。

建安16年(211年)、荊州の次に取る予定であった益州の劉璋より、五斗米道の張魯から国を守って欲しいとの要請が来た。しかし、その使者の法正は張松と謀って、益州の支配を頼りない劉璋から劉備の手に渡す事を目論んでいた。劉備は初めこれを渋ったが、龐統の強い勧めもあり、益州を奪う決心をした。劉備は龐統?黄忠?法正らを連れて益州を攻撃した。諸葛亮は張飛?趙雲らを連れて長江を遡上し、手分けして郡県を平定すると、劉備と共に成都を包囲した(入蜀合戦)。

建安19年(214年)に益州が平定されると、諸葛亮は軍師将軍?署左将軍府事となる。劉備が外征に出る際には常に成都を守り、兵站を支えた。また伊籍?法正?李厳?劉巴とともに蜀の法律である蜀科を制定した。

1. 5. 夷陵の戦い
その後、劉備は曹操に勝利し漢中を領有したが、荊州の留守をしていた関羽が呂蒙の策に殺され、荊州は孫権に奪われた。

劉備の養子の劉封が孟達?申儀の裏切りにより曹操軍に敗走して成都に戻ってくると、劉備は劉封が関羽の援軍に行かなかったことと、孟達の軍楽隊を没収したことを責めた。諸葛亮は劉封の剛勇さは劉備死後に制御し難くなるだろうという理由から、この際に劉封を除くように進言した。劉備はその提案に従い、劉封を自殺させた。

建安25年(220年)には曹操が死去し、その子の曹丕が遂に後漢の献帝より禅譲を受けて、魏王朝を建てた。翌年、劉備はこれに対抗して成都で即位して蜀漢を建て、諸葛亮は丞相?録尚書事となった。

劉備が呉へ進軍を計画し、この戦いの準備段階で張飛が部下に殺されるという事件が起こり、諸葛亮は張飛が就いていた司隷校尉を兼務する。この戦いは最初は順調に行き、途中孫権は領土の一部を返還して和睦を行おうとしたが、劉備はそれを聞かず、陸遜の作戦にはまり大敗に終わった(夷陵の戦い)。この戦いの後、諸葛亮は「法正が生きていれば、これ程の大敗にはならなかった筈だ」と嘆いた(法正は220年に死去している)。

劉備は失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城で章武3年(223年)に死去する。死去にあたり劉備は諸葛亮に対して「君の才能は曹丕の10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に大事を果たすだろう。もし後継ぎ(=劉禅)が補佐するに足りる人物であれば、補佐してくれ。もし、後継ぎに才能がなければ、君が自ら皇帝となりなさい」と言った。これに対し、諸葛亮は、涙を流して、「私は思い切って手足となって働きます」と答え、あくまでも劉禅を補佐する姿勢を取った。

1. 6. 北伐
劉禅が帝位に即くと、諸葛亮は武郷侯?開府治事?益州刺史になり、政治の全権を担った。諸葛亮は呉に鄧芝を派遣して、関羽の死後こじれていた関係を修復すると、魏に対する北伐を企図する。魏は、諸葛亮が実権を握ったのを見て、華歆?王朗?陳羣?許芝、同族の諸葛璋ら高官が相次いで降伏勧告の手紙を送りつけたが、諸葛亮は返事を出さず後に「正議」を発表し彼らを批判した。

益州南部で雍闓?高定らが反乱を起こすが、諸葛亮は225年に益州南部四郡を平定。この地方の財物を軍事に充てた。この時、七縱七禽の故事があったともいわれるが、本伝には見えない(詳しくは孟獲の項を参照)。

建興5年(227年)、諸葛亮は北伐を決行する。北伐にあたり上奏した「出師表」は名文として有名であり、「これを読んで泣かない者は不忠の人に違いない」(『文章規範』の評語)と称賛された。

魏を攻める前年、諸葛亮は、以前魏へ降伏した新城太守の孟達を再び蜀陣営に引き込もうとした。孟達は魏に降った後、曹丕に寵愛されていたが、建興4年(226年)の曹丕の死後は申儀の讒言によって立場を失い、危うい状況にあった。その情勢を偵知した諸葛亮は孟達に手紙を送り孟達もこれに応じて魏に反乱を起こすが、諸葛亮は孟達の性格を嫌って援軍を送らず、魏の司馬懿に討ち取られた[1]。

翌建興6年(228年)春、諸葛亮は漢中より魏へ侵攻した。魏延は、自らが別働隊の兵1万を率い、諸葛亮の本隊と潼関で合流する作戦を提案したが、諸葛亮はこれを許可しなかった[2]。魏延はその後も北伐の度にこの作戦を提案するが、いずれも諸葛亮により退けられている。

諸葛亮は宿将の趙雲をおとりに使って、郿を攻撃すると宣伝し、曹真がそちらに向かった隙を突いて、魏の西方の領地に進軍した。この動きに南安?天水?安定の3郡(いずれも現在の甘粛省に属する)は蜀に寝返った。魏はこの動きに対して張郃を派遣した。諸葛亮は戦略上の要地である街亭の守備に、かねてから才能を評価していた馬謖を任命したが、馬謖は配下の王平の諫言を無視して山上に布陣し、張郃により山の下を包囲され、水の供給源を断たれて敗北した。街亭を失ったことで蜀軍は進軍の拠点を失い、全軍撤退を余儀なくされた(街亭の戦い)。撤退時に諸葛亮は西県を制圧して1000余家を蜀に移住させた。

撤退後、諸葛亮は馬謖らを処刑したほか(「泣いて馬謖を斬る」の語源)、自らも位を3階級下げて右将軍になったが、引き続き丞相の職務を執行した。

同年冬、諸葛亮は再び北伐を決行し、その際「後出師表」を上奏したとされるが[3]、偽作説が有力である。二度目の北伐では陳倉城を攻囲したが、曹真が侵攻路を想定して城の強化を行わせていたことや、守将の郝昭の奮戦により、陥落できないまま食糧不足となり撤退した。撤退時に追撃してきた魏将王双を討ち取っている(陳倉の戦い)。

翌年(229年)春、第3次の北伐を決行し、武将の陳式に武都?陰平の両郡を攻撃させた。魏将郭淮が救援に向かうが、諸葛亮が退路を断つ動きを見せると撤退したため、陳式は無事に武都?陰平の2郡を平定した。この功績により、再び丞相の地位に復帰した。

建興9年(231年)春2月、第4次の北伐を行い司馬懿と対峙、局地的に勝利したものの長雨が続き食糧輸送が途絶えたため撤退した。撤退時に追撃してきた魏の張郃を伏兵を用いて射殺している[4]。食糧輸送を監督していた李平(李厳から改名)は、糧秣の不足を伝えて諸葛亮を呼び戻させる一方、軍が帰還すると「食料は足りているのになぜ退却したのだろうか」と驚いたふりをして責任転嫁をはかろうとした。しかし諸葛亮は出征前後の手紙を提出して李平の矛盾をただしたため、李平は自分の罪を明らかにした。そこで彼を庶民に落として流罪にした。

建興12年(234年)春2月、第5次の最後の北伐を行った。諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣した。しかし、同時に出撃した呉軍は荊州および合肥方面の戦いで魏軍に敗れ、司馬懿も防御に徹し諸葛亮の挑発に乗らなかった。諸葛亮は病に倒れ、秋8月(『三国志演義』では8月23日)、陣中に没した(五丈原の戦い)。享年54。

諸葛亮の死後、蜀軍は全軍退却した。この時、魏延は楊儀の指揮下に入ることを拒否して争いを起こしたが、結局楊儀に殺された。蜀軍が撤退した後、司馬懿はその陣地の跡を検分し、「天下奇才也」(天下の奇才なり)と驚嘆した。

諸葛亮は自身の遺言により漢中の定軍山に葬られた。墳墓は山の地形を利用し作り、棺を入れるだけの小規模なもので、遺体も着用していた衣服を着せたままで、副葬品は一切入れないという質素なものであった。

諸葛亮が死去の報を聞いた李厳(李平)は、「もうこれで(官職に)復帰できる望みは無くなった」と嘆き、程なく病を得て死去した。同様に、僻地へ追放されていた廖立も、彼の死を知るや、「私は結局蛮民になってしまうだろう」と嘆き涙を流した。

諸葛亮の死の直後、各地で霊廟を建立したいという願いが出たが。朝廷は礼の制度に背くとして許可しなかった。また後に成都に諸葛亮の廟を建立すべきだとの意見も提出されたが、劉禅はこれを許可しなかった。しかし、民衆や異民族は季節の祭りを口実に、諸葛亮を路上で勝手に祀ることがあとを断たなかった。結局、習隆?向充の上奏を受け、景耀6年(263年)に成都ではなく沔陽に廟が建立された[5]。

2. 評価

諸葛亮を評したものは、前述の司馬懿のほか、

?陳寿(『三国志』の撰者、後述)
?裴松之:「諸葛亮が魏に仕えて能力を発揮していたら、陳羣や司馬懿でも対抗できなかっただろう」
?杜甫:「伊尹や呂尚に伯仲し、天下がその指揮に服したならば蕭何や曹参も問題にならなかっただろう」(「詠懐古跡」其の五)
?蘇軾:「強大な曹操に対して、自らの内の忠信の心のみをもって対抗した」(『東坡全集』前集巻43「諸葛亮論」)
?朱熹:「孟子以降の人物としては張良と諸葛亮がいるのみである」(『朱子語類』巻163?歴代3)
等、数多い。

2. 1. 陳寿の評
陳寿の評では「時代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛亮を畏れつつも愛した。賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲?蕭何に匹敵する」と最大限の評価を与えている。

しかし、その一方で「毎年のように軍隊を動かしたのに(魏への北伐が)あまり成功しなかったのは、応変の将略(臨機応変な軍略)が得意ではなかったからだろうか」とも書いており、政治家として有能であったと評しつつ、軍人としての評価については慨嘆するに留まり、やや言葉を濁した形になっている。

また、『三国志』に収録されている「諸葛氏集目録」で陳寿らは「諸葛亮は軍隊の統治には優れていたが、奇策はそれほど得意でなく、敵のほうが兵数が多かったので、魏に対する北伐は成功しなかった」と評している[6]。

諸葛亮が奇策を用いなかったことについては、「古来より兵を出して奇計を使わず危険を冒さず成功した者などいない。諸葛孔明の用兵は奇計を使えなかった所に欠点がある。…孔明に功を挙げられないのは、そもそも予想がつくことであり、仲達を必要とすることもない」(王志堅『読史商語』)など批判する意見もある一方で、

?「蜀がもともと弱国で危ういことを知っていたから、慎重堅持して国を鎮めたのだ」(傅玄『傅子』)
?「主君が暗愚で敵国が強大であるので(魏を一気に滅ぼす)計画を変更して蜀を保持しようとしたまでのことだ」(王 夫之『読通鑑論』)
?「諸葛公はリスクが大きい計略だから用いなかったのではない。大義を標榜した出兵だったから策謀や詭計を用いなかったのだ」(洪邁『容斎随筆』)
など様々に擁護する意見もあり、にぎやかに議論が行われた。

陳寿の評について「彼の父が諸葛亮によって処罰されたため、評価を厳しくしたのだ」という説が『晋書』陳寿伝に載るが、実際の『三国志』の記述は公正そのものである。(詳しくは陳寿#陳寿への非難の項を参照)[7]。

2. 2. その他の評価
?裴注所引の『袁子』は「諸葛亮は基本を守る人間で、状況の変化に対応するのは得意ではなかった。だから不得手な面(状況の変化に対応する事)で無理をしなかったのである。不得手な点を知って無理をしない事こそ賢者の偉大なところである」と評している[8]。
?蜀の費禕は姜維に「我々は丞相(諸葛亮)に遥かに及ばない。丞相でさえ中原を平定できなかったのだ。我らなどでは問題外だ。功業樹立は能力のある者の到来を待とう」と語り、諸葛亮を賞賛している。
?西晋の司馬炎は「(諸葛亮を)自分の補佐にしていれば今日の苦労はなかったであろう」と宰相としての諸葛亮を賞賛している(諸葛亮伝?裴注所引『漢晋春秋』)。
?北魏の崔浩は「曹氏と天下を争う事もできず劉璋から国を奪い辺境で皇帝を僭称させた」と極めて辛口の評を述べている(『魏書』毛脩之伝)。
?劉璋が支配していた益州を奪ったことに関しては、蘇軾は「劉璋をだまし討ちにし、荊州に連れ去った事で天下の声望を失った。これでは曹操と変わる所が無い。劉備と曹操では才能?兵力?領土に大きな差があり、忠信の心のみが勝っていた。(劉璋をだまし討ちにして)これを失ってから北伐の大義と唱えても上手く行くはずが無い」と述べている(前掲「諸葛亮論」)。これに対し、明代の学者?王世貞は、劉璋を討つ事を劉備に勧めたのは諸葛亮ではなく龐統?法正である事、また劉焉は漢朝からの独立を企図した叛臣とみるべき存在であり、子たる劉璋を討つ事は正当化される事などを理由として反論している(『読書後』巻2「書蘇子瞻諸葛亮論後」)。
?巴蜀では死後も永くその統治を慕い、懐かしんだ。死後、廟を建立を求める声が各地から挙がり、特別に議して沔陽に立てられた(『襄陽記』)。
?東晋の武将桓温が347年に蜀の成漢を滅ぼし入蜀を果たした際、諸葛亮が生きていたときに小吏を勤めていたという百歳をこえる老人に対し、桓温が「諸葛丞相は、今でいえば誰と比べられるか?」と問うた所、「諸葛丞相が存命中のときはそれほど特別なお方のようには見えませんでした。しかし諸葛丞相がお亡くなりになられてからは、あの人のような人はもういらっしゃらないように思います」と答えたという(『説郛』)。なお、桓温は簡文帝臨終の際に禅譲を考えていたことから、簡文帝に「諸葛亮や王導のように皇太子(孝武帝)を補佐してほしい」と遺詔された。
?劉備の死後、諸葛亮が高く評価した武将には馬謖?向寵等がいるが、抜擢した馬謖は魏軍に大敗して処刑され、向寵も蜂起した蛮族の討伐に赴き敗死する等、武官に対する人物評価の不確かさも陳寿や後代の批評家が与えた「政治は管仲?蕭何に比するが軍事は不得手」という評を裏付けている。
3. 『三国志演義』中の諸葛亮
小説『三国志演義』の中で、その名前を字で記載されているのは玄徳(劉備)と孔明(諸葛亮)のみである(このほか関羽も字の「雲長」や「関公」などと呼ばれて「関羽」と記されることはない)。

『初学記』巻二十五に引く『語林』では、諸葛亮が白い輿に乗り、葛巾をかぶり羽扇を手に軍を指揮したと描写されているが、『三国志演義』ではさらにイメージがふくらまされ、綸巾を戴き羽扇を手にして四輪車に乗り、鬼神や天候をも操り、敵の意図を全て事前に察知し、天文をもって人の生き死にを知る事が出来るといったほぼ完璧な人物として描写されている。この描写については批判もあり、魯迅などは「人物描写に至ってはすこぶる欠点がある。劉備を温厚な人格者として表現しようとしてむしろ偽善者じみているし、諸葛亮を知恵者として表現しようとしてむしろ化け物じみてしまっている」と述べている。

諸葛亮の事跡に関して、『三国志』と『演義』との主な相違点を挙げる。

?『演義』では曹操が南下をもくろみ、夏侯惇に10万の兵を付けて派遣するが、諸葛亮の作戦でこれに大勝した、またこの時に関羽と張飛が諸葛亮に対し反抗したが、孫武の策を使い従わせた、となっているが、実際にはこの戦いは諸葛亮が劉備軍に参加する前の話である。
?赤壁の戦いに於いて、前述の通り諸葛亮はあまり目立った事はしていないが、『演義』に於いては重要な役割を演じている。
?非戦論に傾いていた孫権?周瑜を説得して交戦に向かわせる(『三国志』に徴すれば、周瑜は最初から抗戦を主張していた)。
?戦いが始まってから周瑜は諸葛亮の才能を恐れるようになり、諸葛亮に対して10日で矢10万本を手に入れろと言う無理難題を突きつけて殺そうとしたが、諸葛亮は霧の出た夜に曹操軍に夜襲を仕掛け、曹操軍が放った矢を鹵獲して帰った(裴松之注に見られる孫権の逸話を利用したもの)。
?曹操軍を火攻めにすると決まったものの北西の風しか吹かず、このままでは火を点けてもその火が自分達に返ってくる事がわかり、周瑜は悩んでいた。そこで諸葛亮は壇を築いて祈祷し、東南の風を吹かせ、曹操軍を焼き討ちにしたことになっている。
?赤壁以後の荊州争奪戦に於いて、周瑜は曹操の残党軍を攻めてこれを打ち破るが、諸葛亮はこの隙を突いて曹操軍の城を占領し、諸葛亮に先んじられた事で怒った周瑜は持病が悪化する。その後、周瑜は蜀を取るからと偽って荊州に入り、隙を突いて荊州を占領しようと図ったが、全て諸葛亮に看破され、再び怒った周瑜は「既生瑜、何生亮!?」(天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも生んだのだ!?)と叫び、そのまま持病が悪化して死去したとなっているが、これらも『三国志』本伝にはない。
?北伐で馬謖の失策により蜀軍が総崩れで敗北し、魏軍の追っ手の司馬懿らを目の前に諸葛亮自らが城壁の上で琴を弾く「空城の計」を使い、城壁の裏に大軍がいると勘違いした司馬懿が諸葛亮を恐れて撤退した。これも『演義』の創作である。
?『演義』では北伐中、諸葛亮が魏延の危険性を察知し、追撃してきた司馬懿を谷に誘い込んで魏延共々焼き殺そうとしたが、雨が降ったことで失敗する。その事が原因となって魏延をなだめるため「馬岱が自分の命令を守らなかったための手違い」として処理し馬岱を一兵卒に落とした[9]。
?最後の北伐に於いて、病状が悪化した諸葛亮は幕内に祭壇を築いて寿命を延ばす祈祷を行うが、唐突に幕内に入ってきた魏延がこの祭壇を壊してしまったために祈祷に失敗し、死去する。諸葛亮の死の時に大きな流星があり、司馬懿はこれを見て諸葛亮の死んだ事を悟り、蜀軍に対して総攻撃をかけようとする。ところが蜀軍には諸葛亮の姿があり、これに狼狽した司馬懿は慌てて引き上げる。だが実はこの諸葛亮は木像であったと描いている。後に現地の人間は「死せる孔明、生ける仲達(司馬懿の字)を走らす」と言ったという(この台詞は裴注に引く『漢晋春秋』に見えるが、木像に狼狽したというのは演義の創作である)。
4. 著作等
諸葛亮の著作としてはもちろん「出師表」が最も有名である。漢詩などはまったく残しておらず、その他の文章も全て政治的なことに関する文章である。『三国志』中に引用されているものとして「出師表」の他には李厳を弾劾する表、廖立を弾劾する表などがある。諸葛亮の文章を陳寿が編纂した『諸葛亮集』なる書物があったが現存していない。

「後出師表」は『三国志』本伝に見えず、呉の張儼の著作『黙記』に収録されていたものが『漢晋春秋』に引用され、それを更に裴松之が引用している(裴松之も「この上表文は『諸葛亮集』には見えない」と注記している)。しかしこの文章は228年に書かれたもののはずだが、翌229年に死去したはずの趙雲が、すでに死んでいるという記述がある。

また『三国志』諸葛亮伝によれば、諸葛亮は兵法を応用して八陣の図を作成したが、ことごとく要点をつかんでいた。『李衛公問対』では、唐の名将李靖の「六花の陣」は、諸葛亮の「八陣の法」を参考にして作られているとしている。『三国志演義』では、諸葛亮は『兵法二十四編』を死の直前に姜維に托している。また宋代には『諸葛亮行兵法』『諸葛亮将苑』など諸葛亮の名を冠した偽兵法書の書名が散見する。

諸葛亮は発明家でもあり、諸葛亮に関係した物として、晋時代に普及した筒袖鎧?連発式の弩を工夫した元戎(『魏氏春秋』によれば、この弩は十本の矢を同時に発射することができた)?一説には一輪車の起源とされる木牛?一説に四輪車と言われる流馬?駐留時栽培させた諸葛菜(蕪)?織物の技術を南蛮民に伝えた諸葛錦?字を知らない民の教育に使用した紙芝居?諸葛亮が考案したおもちゃ孔明鎖?現在雲南地方に諸葛亮発明の物として孔明灯なるものなどがあるとされる[要出典][10]。

なお「饅頭」という食品は、諸葛亮が南蛮征伐の際、人頭を祀るという風習の代りに、人頭の代替食品として、小麦の練り物の内部に肉団子を包み込み、人頭に見立てて考え出したものであるという話があるが、これは宋代の類書『事物紀原』に「小説に曰く」と前置きして引かれている話である。

5. 家系
5. 1. 家系図
● ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 諸葛珪                          諸葛玄 ┣━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━┓ 諸葛瑾      諸葛亮               諸葛均 ┣━━━┓   ┣━━━━━━━━━━━┓ 諸葛恪  諸葛喬  諸葛瞻          諸葛懐          ┣━━━┳━━━┓          諸葛尚  諸葛京  諸葛質
5. 2. 諸葛亮の子孫たち
中国には諸葛亮の子孫が集まったとされる諸葛八卦村が浙江省蘭渓市諸葛鎮にあり、住民の多くの姓が「諸葛」となっている。近年になって諸葛亮の家系図(彼らの先祖は諸葛亮の孫の諸葛京の家系とされる)が見つかるが、諸葛亮自身も1800年も前の人物であるので、実際に彼らが諸葛亮の子孫なのかどうかは家系図以外に実証する資料がない。諸葛亮が伝来させたという文化をよく守り、諸葛八卦村は中国から文化財として指定され観光地としても有名である[11]。なお、東京ガールズコレクションにも出演歴がある[12]、諸葛梓岐(マリー?ジュウガー)は諸葛亮63代目の子孫であるという。ちなみに彼女の祖母は日本人とのこと。

張澍『諸葛忠武侯文集』によれば、諸葛質という息子がおり(故事巻一「雑記」)、また諸葛懐という息子?諸葛果という娘がいたとされる(故事巻一「朝真観記」)。諸葛果は成都近くの道観で修行して、ついに仙人となって昇天したという。なお「『襄陽記』に息子の諸葛懐、娘の諸葛果がいた」とする記述が見られる事があるが、現存する『襄陽記』の記述の中にはそのような記述はない。

6. 脚注

1.『三国志』蜀書費詩伝より。
2.「魏延伝」の記述より。『魏略』によると、この時魏延は長安を急襲する作戦を提案している。
3.呉の張儼『黙記』、習鑿歯『漢晋春秋』より。
4.この戦いは、張郃の戦死を除くと勝敗優劣は『三国志』本伝に書かれておらず、蜀軍が撤退した理由も兵糧不足とある。習鑿歯の『漢晋春秋』では、蜀軍が魏軍の郭淮?費曜?司馬懿を破ったとしている。経緯は異なるが『蜀記』にも蜀軍が魏軍に大勝した話が書かれている。『晋書』では、魏軍が蜀軍を撃退、追撃して大勝したとしている。『漢晋春秋』に書かれた戦いは『三国志』蜀書王平伝にもあるが、王平伝では勝敗は書かれていない。『三国志』後主伝?諸葛亮伝?張郃伝では、蜀軍を追撃した魏の張郃が射殺されたことのみ言及され、勝敗には触れていない。この戦いの後、魏では蜀軍を撤退へ追い込んだ功により官位の引き上げが行われた。
5.習鑿歯『襄陽記』より
6.「諸葛氏集目録」によれば、諸葛亮は道具の改良や技術の発展に大貢献した。
7.『三国志』蜀書諸葛亮伝の注に引く孫盛の『異同記』によれば、蜀(益州)の長老が「陳寿が諸葛亮の子の諸葛瞻の部下だったとき、諸葛瞻から恥辱を受けた。陳寿はそのことを根に持って、諸葛瞻は政治の乱れを矯正できなかったと『三国志』に書いた」と語ったという。
8.また、袁子は「諸葛亮の行軍は安定?平静で行動しやすく、堅固?慎重で進退自在であり、法令は明快にして信賞必罰を旨としていたため、士卒は勇んで戦った。諸葛亮が行軍中に作った軍営?井戸?かまど?厠?砦などは立派で規則に適い、撤退する時はそれらをすっかり取り去っていった。また諸葛亮は役所?宿場?橋?道路の修築を好んだが、(袁子によれば)諸葛亮は国家の根幹を確立することで末端も治まるとの方針に基づいてこれらの工事を奨励した。諸葛亮の統治により、田畑は開墾され、武器の性能は良くなった」と評している。
9.『演義』の版本として現在最も通行している毛宗崗本では、この部分は削除されている。
10.『三国志』諸葛亮伝によれば、諸葛亮は連発式の弩(元戎)?木牛?流馬を開発した。
11.諸葛八卦村 -浙江省観光局公式ページより。一部修正
12.東京ガールズコレクション\'09 A/W | 出演モデル | 諸葛梓岐
7. 関連項目
?三顧の礼
?天下三分の計
?水魚の交わり
?出師表
?泣いて馬謖を斬る
?オオアラセイトウ
?饅頭
?天灯
?誡子書
?竜驤虎視(りゅうじょうこし):「亮の素志、進みて竜驤虎視し、四海を苞括せんと欲す」(『蜀志』諸葛亮伝)
8. 参考書籍

?陳寿 『正史三国志5 蜀書』(裴松之 注、井波律子 訳、ちくま学芸文庫1992年、ISBN 978-4-480-08045-5)
?中林史朗訳著 『諸葛孔明語録』 明徳出版社〈中国古典新書続編〉 1986年
?渡辺精一訳著 『全論諸葛孔明』 講談社 2004年
?渡辺精一『諸葛孔明 影の旋律』 東京書籍 1992年
?高畠穣 『諸葛孔明の兵法』 三笠書房 1990年ほか
?渡邉義浩 『諸葛亮孔明 その虚像と実像』 新人物往来社 1998年 
専門家による読み易い「諸葛孔明」伝は、林田慎之助が集英社文庫で、立間祥介が岩波新書で出版。
?陳舜臣 『諸葛孔明』 (中公文庫上下、集英社「著作集」)


--  作者:三途君弈
--  发布时间:2011-2-4 21:49:05
--  

百度一下,你就知道

http://baike.baidu.com/view/2347.htm

维基一下,你更知道。。。

http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%AF%B8%E8%91%9B%E4%BA%AE?variant=zh-cn

[此贴子已经被作者于2011-2-4 21:49:38编辑过]

--  作者:诹访赖清
--  发布时间:2011-2-4 21:58:50
--  

我想知道的是为什么日本人知道诸葛亮的生母姓章,继母姓宋,足下可否赐教?


--  作者:鹿苑馆快晴
--  发布时间:2011-2-4 22:57:38
--  

诸葛亮,中国东汉末期至三国时代的蜀汉政治家、军事家,字孔明。

司隶校尉诸葛丰的后代,泰山郡丞诸葛珪之子。谥忠武侯。辅助蜀汉的建国者刘备创业,作为丞相出色地辅佐了刘备之子刘禅。被称为伏龙或卧龙。现在在成都仍然建有武侯祠,游客云集。

妻为黄夫人。子为出仕蜀汉,于绵竹(成都附近)战死的诸葛瞻。孙子有同样出仕蜀汉,跟父亲一同战死在绵竹的诸葛尚和成为西晋江州刺史的诸葛京。亲族的叔父豫章太守诸葛玄、出仕吴国的哥哥诸葛瑾以及其子诸葛恪、一同出仕蜀汉的弟弟诸葛均等等。同族中有出仕魏国的诸葛诞、诸葛绪、诸葛璋、诸葛虔、诸葛原(景春)等。

内容:
1.略传
2.评价
3.《三国演义》中的诸葛亮
4.著作等
5.家谱
6.脚注
7.关联项目
8.参考书籍

诸葛亮

蜀汉 丞相
出生 光和4年(181年)
不详
死亡 建兴12年(234年)
五丈原
拼音 zhuge liang
字 孔明
谥号 忠武侯
别名 伏龙、卧龙(外号)
主公 刘备→刘禅

1.略传
1.1.书生时代
祖籍琅琊郡阳都(现山东省临沂市沂南县),出生地不明。身高8尺(东汉时1尺=23cm,8尺=184cm魏、西晋时一尺=24.1cm,8尺=192.8cm)。其祖先为西汉元帝时的司隶校尉诸葛丰,父亲诸葛珪虽为泰山郡丞(郡的副长官),但是在诸葛亮幼小的时候就去世了。生母章氏也同样在他幼小的时候死去,其父后续弦宋氏。年长很多的哥哥诸葛瑾出仕吴国,弟弟诸葛均一同出仕蜀汉,此外还有个妹妹,与东汉献帝生卒年相同。

年幼时与弟弟诸葛均一起被叔父诸葛玄带着从徐州移居南方。此时据《三国志》正传记载,叔父诸葛玄被袁术授命为豫章太守,可是由于东汉朝廷派遣朱皓(朱隽之子)就任豫章太守,其后寄居于刘表处。相对的,据裴松之注《献帝春秋》记载,因朝廷任命的豫章太守周术病死,刘表任命诸葛玄代任,但朝廷派遣了朱皓,朱皓借刘繇之力驱逐了诸葛玄,诸葛玄逃跑,但于建安二年(197年)遭民众造反被杀,首级被送至刘繇处。

其后诸葛亮在荆州跟弟弟过着晴耕雨读的生活,喜欢咏唱梁父吟。这时虽自比管仲乐毅,但当时并不为世人所认同。只有好友崔州平和徐庶认可他的才华。在这个时候他娶了当地名人黄承彦的女儿。据裴松之注《襄阳记》记载,黄承彦告诉诸葛亮说:“虽然我女儿长得又黑又丑,但是才能绝对配得上你。”于是诸葛亮同意了。周围的人都笑话他说:“别像孔明一样选老婆。”从此以后选丑女为妻就被称为“孔明选妻”。

1.2.三顾之礼
此时在华北,建安5年(200年),曹操击破袁绍夺取霸权,窥伺着南侵的机会。刘备离开袁绍的阵营投奔刘表,寄居在荆州北部的新野(河南省南阳市新野县)。

诸葛亮虽然每天晴耕雨读地度日,但是友人徐庶出仕刘备,向刘备推荐了诸葛亮。求贤的刘备拜托徐庶把诸葛亮带来,但是徐庶说:“诸葛亮不是我能请来的人物。”于是刘备三次去诸葛亮家拜访,终于请到了诸葛亮。这就是有名的“三顾之礼”。据裴松之注《襄阳记》记载,刘备拜访了有名的人物鉴定家司马徽,司马徽说:“识时务者为俊杰”,推荐了“卧龙”诸葛亮和“凤雏”庞统。另据“魏略”记载,是诸葛亮自荐于刘备。此外据裴松之自述:“《出师表》明确记载了是刘备拜访诸葛亮。但是有这样的异说,也不能确定。”

这时,诸葛亮向刘备献“天下三分之计”,劝他应该避开曹操和孙权,占据荆州和益州,其后夺取天下。听了这话的刘备佩服诸葛亮的见识,诸葛亮同意出仕刘备。这就是孔明出庐。

1.3.赤壁之战
建安13年(208年),刘表阵营大部分人决定立刘琮为继承人,刘琦性命危急。刘琦请教诸葛亮救命之策,但诸葛亮担心刘表一族的内讧将刘备他们卷进去,没有应承。于是刘琦设计带诸葛亮上高楼,之后撤去梯子,向诸葛亮征求意见。

早有准备的诸葛亮引用春秋时晋文公的故事,劝刘琦出外保身。刘琦听从此计,趁当时江夏(现湖北省武昌)太守黄祖被孙权杀死,去无主的此地赴任。刘琦的兵力后来成为刘备军被曹操击溃时的重要援军。

同年,刘表死去。其后按照预定,刘琮即位。诸葛亮劝刘备取荆州对抗曹操,但是刘备很犯难。不久,曹操开始南下,刘琮马上就投降了。刘备被曹操军追击,带着败军逃往夏口(长坂之战)。

孙权阵营为观察形势,派鲁肃前来。诸葛亮同鲁肃一起谒见孙权,说服孙权联刘抗曹取得成功。孙刘联军与曹军对决于长江流域,获得胜利(赤壁之战)。

1.4.入蜀
战后,刘备军趁孙权曹操争斗,占据了荆南4郡。诸葛亮被任命为军师中郎将,统治4郡中的3郡,负责税收与军事。此时,与诸葛亮齐名的庞统加入了刘备阵营。

建安16年(211年),预定在荆州之后攻取的益州的刘璋请求援军从五斗米教的张鲁军攻击下保卫国家。可是使者法正与张松合谋,要将益州从不可信任的刘璋手中送给刘备。刘备本不同意,但在庞统的强势劝说下,决定夺取益州。刘备带着庞统、黄忠、法正攻击益州。诸葛亮带着张飞、赵云溯长江而上,分别平定郡县,与刘备对成都进行包围(入蜀会战)。

建安19年(214年)益州平定,诸葛亮成为军师将军,署左将军府事。刘备出征时经常镇守成都,支援兵站。并与伊籍、法正、李严、刘巴一起制定了蜀国法律——蜀科。

1.5.彝陵之战
其后,刘备对曹操作战胜利,占据了汉中。但是留守荆州的关羽被吕蒙设计杀死,荆州被孙权夺取。

刘备的养子刘封因孟达、申仪叛变,败给曹操军,逃回成都。刘备怪罪刘封不派援军救关羽和没收孟达的军乐队。诸葛亮向刘备进言,刘封的刚勇在刘备死后很难制御,该趁此机会除掉刘封。刘备听从这个提案,下令让刘封自杀。

建安25年(220年)曹操死去,其子曹丕终于接受东汉献帝禅让,建立魏王朝。翌年,刘备为对抗此事,在成都即位建立蜀汉,诸葛亮成为丞相,录尚书事。

刘备计划进军吴,在战争准备阶段张飞被部下刺杀,诸葛亮兼任了张飞就任的司隶校尉。此战开始时顺利进行,中段孙权请求返还一部分领土讲和,但是刘备拒绝了,与陆逊作战,大败(夷陵之战)。此战后,诸葛亮叹曰:“若法正在,必不至此大败”(法正死于220年)。

刘备失意后病重,章武3年(223年)死于逃入的白帝城。死前刘备对诸葛亮说:“君才十倍于曹丕,必能安国,终定大事。若嗣子(刘禅)可辅,辅之;如其不才,君可自取。”诸葛亮流泪回答:“臣敢竭股肱之力,效忠贞之节,继之以死!”辅佐刘禅一直到死。

1.6.北伐
刘禅一即帝位,诸葛亮就成为武乡侯、开府治事、益州刺史,政治大权独揽。诸葛亮派邓芝出使吴,修复关羽死后破裂的关系,企图发动对魏北伐。魏国见诸葛亮掌握实权,先后派华歆、王朗、陈群、许芝、同族的诸葛璋等送劝降书,但是诸葛亮不回应,并且在之后发表《正议》批判他们。

益州南部雍闿、高定等叛乱,但诸葛亮于225年平定益南四郡,财物充军。此时有七纵七擒的故事,但是并不见于本传(详情参照孟获的章节)。

建兴5年(227年),诸葛亮决意北伐。北伐前上奏的《出师表》成为了有名的名文,被称赞“读此文不哭的家伙是不忠之人”(《文章规范》的评语)

攻魏的前一年,诸葛亮拉拢了以前投降魏的新城太守孟达再次回到蜀阵营。孟达降魏后,深受曹丕宠爱,可是建兴4年(226)年曹丕死后因申仪的谗言失宠,状况危急。探知此事的诸葛亮送信给孟达,孟达也同意做反魏内应,可是因诸葛亮讨厌孟达的性格没派遣援军,孟达被魏将司马懿讨杀。

建兴6年(228年)春,诸葛亮从汉中攻魏。魏延提案由自己率领1万别动队,与诸葛亮本队于潼关合流作战,但是诸葛亮没准许。魏延也在其后的每次北伐中提议此作战,但是都被诸葛亮否决了。

诸葛亮宣扬用老将赵云攻击郿,趁曹真向那里行军时进军魏西部领地。因此南安、天水、安定3郡(都在现在甘肃境内)叛入蜀。魏针对此形势派遣张郃出战。诸葛亮为守备战略要地街亭早已派貌似有才的马谡驻守,但是马谡不听部下王平劝谏,上山布阵,被张郃包围山下断绝水源而败北。丢失街亭的蜀军丧失了进军的据点,只好全军败退(街亭之战)。撤退时诸葛亮制压了西县,将1000余户迁往蜀国。

撤退后,诸葛亮斩了马谡(“挥泪斩马谡”的语源),并自降3级成右将军,行丞相事。

同年冬,诸葛亮决定再次北伐,上奏《后出师表》,但是有力证据证明是伪作。二次北伐围攻陈仓城,但是曹真已料到进攻路线,强化了城池,并且由于守将郝昭的奋战,没有攻陷就由于粮草不足撤退了。撤退时讨杀了追击而至的魏将王双(陈仓之战)。

翌年(229年)春,决意第三次北伐,派武将陈式攻击武都、阴平两郡。魏将郭淮准备救援,但发现被诸葛亮欲断其退路,于是撤退。陈式因此顺利平定了武都、阴平两郡。因此功绩,诸葛亮再次复职成为丞相。

建兴9年(231年)春2月,进行第4次北伐,与司马懿对峙,虽然取得局部胜利,但由于连绵降雨粮道断绝撤退。撤退时用伏兵射杀追击而来的魏将张郃。监督粮草运输的李平(李严的改名)传言粮草不足让诸葛亮回军,而回军后又假作惊讶“兵粮充足,何故退兵?”转嫁责任。可是诸葛亮拿出了出征前后的信件,披露出李平自相矛盾的说辞,李平认罪。于是他被贬为庶民。

建兴12年(234年)春2月,进行第5次,也是最后一次北伐。诸葛亮进行屯田,准备在五丈原跟司马懿进行持久战。可是同时出击的吴军在荆州到合肥方面的战斗中败给魏军,司马懿也采取稳固防御不接受诸葛亮的挑衅。诸葛亮病倒,秋8月(《三国演义》记载为8月23日)没于军中(五丈原之战)。享年54岁。

诸葛亮死后,蜀军全军撤退。这时,魏延因不愿接受杨仪的指挥而发起兵变,结果被杨仪杀死。蜀军撤退后,司马懿检视蜀军阵地,惊叹曰“天下奇才也”。

诸葛亮被依照自己的遗言葬在汉中的定军山。坟墓依山而建,棺材只是能容人的小规模,遗体也只是穿着常穿的衣服,没有一切陪葬品,很朴素。

得知诸葛亮死讯的李严(李平)悲叹:“没有官复原职的希望了”,没多久就病死了。同样的,被流放到偏僻之地的廖立也流泪悲叹:“我最后也只能是个蛮夷了吧。”

诸葛亮死后,各地建立灵庙祈愿,但是由于违背朝廷礼制不被允许。再之后有人提意见说应该在成都建立诸葛亮的庙,刘禅也不允许。可是无法禁止民众和异民族借口季节祭在路上随意祭祀诸葛亮。结果,朝廷接受了习隆、向充的上奏,于景耀6年(263年)没在成都而在沔阳建立了庙。

累死了,水平不行,先翻到这~


--  作者:木村信渊
--  发布时间:2011-2-5 16:04:15
--  
以下是引用诹访赖清在2011-2-4 21:58:50的发言:

我想知道的是为什么日本人知道诸葛亮的生母姓章,继母姓宋,足下可否赐教?

中林史朗訳著 『諸葛孔明語録』 明徳出版社〈中国古典新書続編〉 1986年
渡辺精一訳著 『全論諸葛孔明』 講談社 2004年
渡辺精一『諸葛孔明 影の旋律』 東京書籍 1992年
高畠穣 『諸葛孔明の兵法』 三笠書房 1990年ほか
渡邉義浩 『諸葛亮孔明 その虚像と実像』 新人物往来社 1998年 
専門家による読み易い「諸葛孔明」伝は、林田慎之助が集英社文庫で、立間祥介が岩波新書で出版。
陳舜臣 『諸葛孔明』 (中公文庫上下、集英社「著作集」)

總歸是這幾個裏面其中之一了


--  作者:天翔
--  发布时间:2011-2-8 17:16:59
--  
啧啧~~赌王不但会赌钱,还会当翻译
--  作者:浅井亮清
--  发布时间:2011-2-9 8:48:46
--  

我也很奇怪……

国内似乎没有这样的说话……

求达人解释……