天皇のみよみませる
0001
天皇の香具山に登りまして
0002 大和には
天皇の宇智の
0003 やすみしし 我が
0004 玉きはる宇智の大野に馬
讃岐国
0005 霞立つ 長き
反し歌
0006 山越しの風を時じみ
右、日本書紀ヲ
額田王の歌
0007 秋の野のみ草苅り葺き宿れりし宇治の
右、山上憶良大夫ガ類聚歌林ヲ
額田王の歌
0008
右、山上憶良大夫ガ類聚歌林ヲ検フルニ曰ク、飛鳥ノ岡本宮ニ御宇シシ天皇元年己丑、九年丁酉十二月己巳ノ朔ノ壬午、天皇太后、伊豫ノ湯ノ宮ニ幸ス。後ノ岡本宮ニ馭宇シシ天皇七年辛酉ノ春正月丁酉ノ朔ノ壬寅、御船西ニ征キテ、始メテ海路ニ就ク。庚戌、御船伊豫ノ熟田津ノ石湯行宮ニ泊ツ。天皇、昔日ヨリ猶存レル物ヲ御覧シ、当時忽チ感愛ノ情ヲ起シタマヒキ。
紀の
0009
中皇命の紀の温泉に
0010 君が代も我が代も知らむ
0011 我が背子は仮廬作らす
0012
右、山上憶良大夫ガ類聚歌林ヲ
0013 香具山は
反し歌
0014 香具山と耳成山と
0015 綿津見の豊旗雲に入日さし今宵の
右ノ一首ノ歌、今
天皇の
0016
額田王の近江国に下りたまへる時よみたまへる歌
0017
反し歌
0018 三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなむ隠さふべしや
右ノ二首ノ歌、山上憶良大夫ガ類聚歌林ニ曰ク、近江国ニ都ヲ遷ス時、三輪山ヲ御覧シテ御歌ヨミマセリ。日本書紀ニ曰ク、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、近江ニ都ヲ遷ス。
0019
右ノ一首ノ歌、今按フニ和スル歌ニ似ズ。但シ旧本此ノ次ニ載セタリ。故レ以テ猶載ス。
天皇の
0020 茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる
0021 紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に
紀ニ曰ク、天皇七年丁卯夏五月五日、蒲生野ニ縦猟シタマフ。時ニ大皇弟諸王内臣及ビ群臣皆悉ク従ヘリ。
0022 河の
吹黄刀自ハ詳ラカナラズ。但シ紀ニ曰ク、天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥、十市皇女、阿閇皇女、伊勢神宮ニ参赴タマヘリ。
0023
麻續王のこの歌を聞かして
0024 うつせみの命を惜しみ波に
右、日本紀ヲ案フルニ曰ク、天皇四年乙亥夏四月戊戌ノ朔乙卯、三品麻續王、罪有リテ因幡ニ流サレタマフ。一子ハ伊豆ノ島ニ流サレタマフ。一子ハ血鹿ノ島ニ流サレタマフ。是ニ伊勢国伊良虞ノ島ニ配スト云フハ、若疑後ノ人歌辞ニ縁リテ誤記セルカ。
天皇のみよみませる
0025 み吉野の
或ル
0026 み吉野の 耳我の山に 時じくそ 雪は降るちふ 間なくそ 雨は降るちふ その雪の 時じくがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を
右、句々相換レリ。此ニ因テ重テ載タリ。
天皇の吉野の宮に幸せる時にみよみませる
0027 淑き人の良しと吉く見て好しと言ひし芳野吉く見よ良き人よく見
紀ニ曰ク、八年己卯五月庚辰朔甲申、吉野宮ニ幸ス。
天皇のみよみませる
0028 春過ぎて夏来るらし
近江の荒れたる都を
0029 玉たすき
反し歌
0030 楽浪の志賀の
0031 楽浪の志賀の
0032 古の人に我あれや楽浪の古き都を見れば悲しき
0033 楽浪の国つ御神のうらさびて荒れたる都見れば悲しも
紀伊国に幸せる時、川島皇子のよみませる
0034 白波の浜松が枝の
日本紀ニ曰ク、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇紀伊国ニ幸ス。
0035 これやこの大和にしては
吉野の宮に幸せる時、柿本朝臣人麿がよめる歌
0036 やすみしし 我が
反し歌
0037 見れど飽かぬ吉野の川の
0038 やすみしし 我が
反し歌
0039 山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも
右、日本紀ニ曰ク、三年己丑正月、天皇吉野宮ニ幸ス。八月、吉野宮ニ幸ス。四年庚寅二月、吉野宮ニ幸ス。五月、吉野宮ニ幸ス。五年辛卯正月、吉野宮ニ幸ス。四月、吉野宮ニ幸セリトイヘリ。何月ノ従駕ニテ作ル歌ナルコトヲ詳ラカニ知ラズ。
伊勢国に幸せる時の歌
0040
0041
0042 潮騒に伊良虞の島
右の
0043 我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の
右の
0044
右の一首は、
輕皇子の
0045 やすみしし 我が
0046 安騎の野に宿れる
0047 ま草苅る荒野にはあれど
0048
0049
藤原の宮
0050 やすみしし 我が
右、日本紀ニ曰ク、朱鳥七年癸巳秋八月、藤原ノ宮地ニ幸ス。八年甲午春正月、藤原宮ニ幸ス。冬十二月庚戌ノ朔乙卯、藤原宮ニ遷リ居ス。
明日香の宮より藤原の宮に遷り
0051
藤原の宮の御井の歌
0052 やすみしし 我ご
短歌
0053 藤原の大宮仕へ
右の歌、
*0054 巨勢山の
右の一首は、
太上天皇の紀伊国に幸せる時、
0055
0056 河上の列列椿つらつらに見れども飽かず巨勢の春野は
右の一首は、
0057
右の一首は、
0058 いづくにか船泊てすらむ
右の一首は、高市連黒人。
0059 流らふる雪吹く風の*寒き夜に我が
右の一首は、
0060 宵に逢ひて
右の一首は、
0061
右の一首は、
三野連が
0062
0063 いざ子ども早
0064
右の一首は、志貴皇子。
0065 霰打ち
右の一首は、長皇子。
0066 大伴の高師の浜の松が根を
右の一首は、
0067 旅にして物
右の一首は、高安大島。
0068 大伴の御津の浜なる忘れ貝家なる妹を忘れて思へや
右の一首は、
0069 草枕旅行く君と知らませば岸の
右の一首は、
0070 大和には鳴きてか来らむ呼子鳥
右の一首は、高市連黒人。
0071 大和恋ひ
右の一首は、
0072 玉藻刈る沖へは榜がじ
右の一首は、
0073 我妹子を早見浜風大和なる
右の一首は、長皇子。
大行天皇の吉野の宮に幸せる時の歌
0074 み吉野の山の
右の一首は、或るひとの云はく、天皇のみよみませる
0075
右の一首は、長屋王。
0076
0077 吾が
三年
0078 飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ
藤原の京より寧樂の宮に遷りませる時の歌
0079
反し歌
0080 青丹よし寧樂の家には万代に
右の歌は、
0081
0082
0083
右ノ二首ハ、今
長皇子と、志貴皇子と、佐紀の宮にて
0084 秋さらば今も見るごと妻恋に
右の一首は、長皇子。
〔磐姫〕*皇后の天皇を思ばしてよみませる御歌四首
0085 君が旅行日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ
右ノ一首ノ歌ハ、山上憶良臣ガ類聚歌林ニ載セタリ。古事記ニ曰ク、輕太子、輕大郎女ニ奸ケヌ。故其ノ太子、伊豫ノ湯ニ流サル。此ノ時衣通王、恋慕ニ堪ヘズシテ追ヒ徃ク時ノ歌ニ曰ク、
0090 君がゆき日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ
此ニ山多豆ト云ヘルハ、今ノ造木也。右ノ一首ノ歌ハ、古事記ト類聚歌林ト、説ク所同ジカラズ。歌主モ亦異レリ。因レ日本紀ヲ検フルニ曰ク、難波高津宮ニ御宇シシ大鷦鷯天皇、廿二年春正月、天皇皇后ニ語リタマヒテ曰ク、八田皇女ヲ納レテ、妃ト為サム。時ニ皇后聴シタマハズ。爰ニ天皇歌ヨミシテ、以テ皇后ニ乞ハシタマフ、云々。三十年秋九月乙卯朔乙丑、皇后、紀伊国ニ遊行シテ、熊野岬ニ到リ、其処ノ御綱葉ヲ取リテ還リタマフ。是ニ天皇、皇后ノ在サヌコトヲ伺ヒテ、八田皇女ヲ娶リテ、宮ノ中ニ納レタマフ。時ニ皇后、難波ノ濟ニ到リ、天皇ノ八田皇女ヲ合シツト聞カシタマヒテ、大ニコレヲ恨ミタマフ、云々。亦曰ク、遠ツ飛鳥宮ニ御宇シシ雄朝嬬稚子宿禰天皇、二十三年春三月甲午朔庚子、木梨輕皇子ヲ太子ト為ス。容姿佳麗。見ル者自ラ感ヅ。同母妹輕太娘皇女モ亦艶妙ナリ、云々。遂ニ竊ニ通ケヌ。乃チ悒懐少シ息ム。廿四年夏六月、御羮ノ汁凝リテ以テ氷ヲ作ス。天皇異シミタマフ。其ノ所由ヲ卜シメタマフニ、卜者曰サク、内ノ乱有ラム、盖シ親親相姦カ、云々。仍チ大娘皇女ヲ伊豫ニ移ストイヘルハ、今案ルニ、二代二時此歌ヲ見ズ。
0086 かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根し枕きて死なましものを
0087 在りつつも君をば待たむ打靡く吾が黒髪に霜の置くまでに
或ル本ノ歌ニ曰ク
0089 居明かして君をば待たむぬば玉の吾が黒髪に霜は降るとも
右ノ一首ハ、古歌集ノ中ニ出デタリ。
0088 秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いづへの方に我が恋やまむ
天皇の鏡女王に賜へる御歌一首
0091 妹があたり継ぎても見むに大和なる大島の嶺に家居らましを
鏡女王の和へ奉れる歌一首
0092 秋山の樹の下隠り行く水の吾こそ勝らめ思ほさむよは
内大臣藤原の卿の、鏡女王を娉ひたまふ時、鏡女王の内大臣に贈りたまへる歌一首
0093 玉くしげ帰るを否み明けてゆかば君が名はあれど吾が名し惜しも
内大臣藤原の卿の、鏡女王に報贈たまへる歌一首
0094 玉くしげ三室の山のさな葛さ寝ずは遂に有りかてましも
内大臣藤原の卿の釆女安見児を娶たる時よみたまへる歌一首
0095 吾はもや安見児得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり
久米禅師が石川郎女を娉ふ時の歌五首
0096 美薦苅る信濃の真弓吾が引かば貴人さびて否と言はむかも 禅師
0097 美薦苅る信濃の真弓引かずして弦著くる行事を知ると言はなくに 郎女
0098 梓弓引かばまにまに寄らめども後の心を知りかてぬかも 郎女
0099 梓弓弓弦取り佩け引く人は後の心を知る人ぞ引く 禅師
0100 東人の荷前の箱の荷の緒にも妹が心に乗りにけるかも 禅師
0101 玉葛実ならぬ木には千早ぶる神そ著くちふ成らぬ木ごとに
巨勢郎女が報贈ふる歌一首
0102 玉葛花のみ咲きて成らざるは誰が恋ならも吾は恋ひ思ふを
天皇の藤原夫人に賜へる御歌一首
0103 我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後
藤原夫人の和へ奉れる歌一首
0104 我が岡のおかみに乞ひて降らしめし雪の砕けしそこに散りけむ
大津皇子の、伊勢の神宮に竊ひ下りて上来ります時に、大伯皇女のよみませる御歌二首
0105 我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に吾が立ち濡れし
0106 二人ゆけど行き過ぎがたき秋山をいかでか君が独り越えなむ
大津皇子の、石川郎女に贈りたまへる御歌一首
0107 足引の山のしづくに妹待つと吾が立ち濡れぬ山のしづくに
石川郎女が和へ奉れる歌一首
0108 吾を待つと君が濡れけむ足引の山のしづくにならましものを
大津皇子、石川女郎に竊ひ婚ひたまへる時、津守連通が其の事を占ひ露はせれば、皇子のよみませる御歌一首
0109 大船の津守が占に告らむとは兼ねてを知りて我が二人寝し
日並皇子の尊の石川女郎に贈り賜へる御歌一首 女郎、字ヲ大名児ト曰フ
0110 大名児を彼方野辺に苅る草の束のあひだも吾忘れめや
吉野の宮に幸せる時、弓削皇子の額田王に贈りたまへる御歌一首
0111 古に恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡りゆく
額田王の和へ奉れる歌一首
0112 古に恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし吾が恋ふるごと
吉野より蘿生せる松が枝を折取りて遣りたまへる時、額田王の奉入れる歌一首
0113 み吉野の山松が枝は愛しきかも君が御言を持ちて通はく
但馬皇女の、高市皇子の宮に在せる時、穂積皇子を思ひてよみませる御歌一首
0114 秋の田の穂向きの寄れる片依りに君に寄りなな言痛かりとも
穂積皇子に勅ちて、近江の志賀の山寺に遣はさるる時、但馬皇女のよみませる御歌一首
0115 遺れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻に標結へ我が兄
但馬皇女の、高市皇子の宮に在せる時、穂積皇子に竊び接ひたまひし事既形れて後によみませる御歌一首
0116 人言を繁み言痛み生ける世に未だ渡らぬ朝川渡る
舎人皇子の舎人娘子に賜へる御歌一首
0117 大夫や片恋せむと嘆けども醜の益荒雄なほ恋ひにけり
舎人娘子が和へ奉れる歌一首
0118 嘆きつつ大夫の恋ふれこそ吾が髪結の漬ぢて濡れけれ
弓削皇子の紀皇女を思ひてよみませる御歌四首
0119 吉野川行く瀬の早み暫しくも淀むことなく有りこせぬかも
0120 吾妹子に恋ひつつあらずは秋萩の咲きて散りぬる花ならましを
0121 夕さらば潮満ち来なむ住吉の浅香の浦に玉藻苅りてな
0122 大船の泊つる泊りのたゆたひに物思ひ痩せぬ他人の子故に
三方沙弥が、園臣生羽の女に娶ひて、幾だもあらねば、臥病せるときの作歌三首
0123 束けば滑れ束かねば長き妹が髪このごろ見ぬに掻上げつらむか 三方沙弥
0124 人皆は今は長みと束けと言へど君が見し髪乱りたりとも 娘子
0125 橘の蔭踏む路の八衢に物をそ思ふ妹に逢はずて 三方沙弥
石川女郎が、大伴宿禰田主に贈れる歌一首
0126 遊士と吾は聞けるを宿貸さず吾を帰せりおその風流士
大伴田主ハ、字仲郎ト曰リ。容姿佳艶、風流秀絶。見ル人聞ク者、歎息カズトイフコト靡シ。時ニ石川女郎トイフモノアリ。自ラ雙栖ノ感ヒヲ成シ、恒ニ独守ノ難キヲ悲シム。意ハ書寄セムト欲ヘドモ、未ダ良キ信ニ逢ハズ。爰ニ方便ヲ作シテ、賎シキ嫗ニ似セ、己レ堝子ヲ提ゲテ、寝ノ側ニ到ル。哽音跼足、戸ヲ叩キ諮ヒテ曰ク、東ノ隣ノ貧シキ女、火ヲ取ラムト来タルト。是ニ仲郎、暗キ裏ニ冒隠ノ形ヲ識ラズ、慮外ニ拘接ノ計ニ堪ヘズ。念ヒニ任セテ火ヲ取リ、跡ニ就キテ帰リ去ヌ。明ケテ後、女郎既ニ自ラ媒チセシコトノ愧ヅベキヲ恥ヂ、復タ心契ノ果タサザルヲ恨ム。因テ斯ノ歌ヲ作ミ、以テ贈リテ諺戯レリ。
大伴宿禰田主が報贈ふる歌一首
0127 遊士に吾はありけり宿貸さず帰せし吾そ風流士にある
石川女郎がまた大伴宿禰田主に贈れる歌一首
0128 吾が聞きし耳によく似つ葦の末の足痛む我が背自愛給ぶべし
右、中郎ノ足ノ疾ニ依リ、此ノ歌ヲ贈リテ問訊ヘリ。
大津皇子の宮の侍石川女郎が大伴宿禰宿奈麻呂に贈れる歌一首
0129 古りにし嫗にしてやかくばかり恋に沈まむ手童のごと
0130 丹生の川瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛む吾弟いで通ひ来ね
柿本朝臣人麿が石見国より妻に別れ上来る時の歌二首、また短歌
0131 石見の海 角の浦廻を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚取り 海辺を指して 渡津の 荒礒の上に か青なる 玉藻沖つ藻 朝羽振る 風こそ来寄せ 夕羽振る 波こそ来寄せ 波の共 か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万たび かへり見すれど いや遠に 里は離りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひ萎えて 偲ふらむ 妹が門見む 靡けこの山
反し歌二首
0132 石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか
或ル本ノ反シ歌
0134 石見なる高角山の木の間よも吾が袖振るを妹見けむかも
0133 小竹が葉はみ山もさやに乱れども吾は妹思ふ別れ来ぬれば
或ル本ノ歌一首、マタ短歌
0138 石見の海 角の浦みを 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 勇魚取り 海辺を指して 柔田津の 荒礒の上に か青なる 玉藻沖つ藻 明け来れば 波こそ来寄せ 夕されば 風こそ来寄せ 波のむた か寄りかく寄る 玉藻なす 靡き吾が寝し 敷布の 妹が手本を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万たび かへり見すれど いや遠に 里離り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ はしきやし 吾が妻の子が 夏草の 思ひ萎えて 嘆くらむ 角の里見む 靡けこの山
反し歌
0139 石見の海竹綱山の木の間より吾が振る袖を妹見つらむか
右、歌体同ジト雖モ、句々相替レリ。因テ此ニ重ネ載ス。
0135 つぬさはふ 石見の海の 言さへく 辛の崎なる 海石にそ 深海松生ふる 荒礒にそ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡き寝し子を 深海松の 深めて思へど さ寝し夜は 幾だもあらず 延ふ蔦の 別れし来れば 肝向かふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど 大舟の 渡の山の もみち葉の 散りの乱りに 妹が袖 さやにも見えず 妻隠る 屋上の山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隠ろひ来つつ 天伝ふ 入日さしぬれ 大夫と 思へる吾も 敷布の 衣の袖は 通りて濡れぬ
反し歌二首
0136 青駒が足掻を速み雲居にそ妹があたりを過ぎて来にける
0137 秋山に散らふ黄葉暫しくはな散り乱りそ妹があたり見む
柿本朝臣人麿が妻依羅娘子が、人麿と相別るる歌一首
0140 な思ひと君は言へども逢はむ時いつと知りてか吾が恋ひざらむ
有間皇子の自傷みまして松が枝を結びたまへる御歌二首
0141 磐代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた還り見む
0142 家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
長忌寸意吉麻呂が、結び松を見て哀咽みよめる歌二首
0143 磐代の岸の松が枝結びけむ人は還りてまた見けむかも
柿本朝臣人麿ノ歌集ニ云ク、大宝元年辛丑、紀伊国ニ幸セル時、結ビ松ヲ見テ作レル歌一首
0146 後見むと君が結べる磐代の小松が末をまた見けむかも
0144 磐代の野中に立てる結び松心も解けず古思ほゆ
山上臣憶良が追ひて和ふる歌一首
0145 鳥翔成す有りがよひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
天皇の聖躬不豫せす時、大后の奉れる御歌一首
0147 天の原振り放け見れば大王の御寿は長く天足らしたり
一書ニ曰ク、近江天皇ノ聖体不豫ニシテ、御病急ナル時、大后ノ奉献レル御歌一首ナリト。
天皇の崩御せる時、〔倭〕大后のよみませる御歌二首
0148 青旗の木旗の上を通ふとは目には見ゆれど直に逢はぬかも
0149 人はよし思ひ止むとも玉蘰影に見えつつ忘らえぬかも
天皇の崩せる時、婦人がよめる歌一首 姓氏ハ詳ラカナラズ
0150 うつせみし 神に勝へねば 離り居て 朝嘆く君 放れ居て 吾が恋ふる君 玉ならば 手に巻き持ちて 衣ならば 脱く時もなく 吾が恋ひむ 君そ昨夜の夜 夢に見えつる
天皇の大殯の時の歌四首
0151 かからむと予て知りせば大御船泊てし泊に標結はましを 額田王
0152 やすみしし我ご大王の大御船待ちか恋ふらむ志賀の辛崎 舎人吉年
大后の御歌一首
0153 鯨魚取り 淡海の海を 沖放けて 榜ぎ来る船 辺付きて 榜ぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 夫の命の 思ふ鳥立つ
石川夫人が歌一首
0154 楽浪の大山守は誰が為か山に標結ふ君も在さなくに
山科の御陵より退散れる時、額田王のよみたまへる歌一首
0155 やすみしし 我ご大王の 畏きや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人は 去き別れなむ
十市皇女の薨せる時、高市皇子尊のよみませる御歌三首
0156 三諸の神の神杉かくのみにありとし見つつ寝ぬ夜ぞ多き
0157 神山の山辺真麻木綿短か木綿かくのみ故に長くと思ひき
0158 山吹の立ち茂みたる*山清水汲みに行かめど道の知らなく
0159 やすみしし 我が大王の 夕されば 見したまふらし 明け来れば 問ひたまふらし 神岳の 山の黄葉を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 見したまはまし その山を 振り放け見つつ 夕されば あやに悲しみ 明け来れば うらさび暮らし 荒布の 衣の袖は 乾る時もなし
一書ニ曰ク、天皇ノ崩セル時、太上天皇ノ御製ミマセル歌二首
0160 燃ゆる火も取りて包みて袋には入ると言はずや面智男雲
0161 北山にたなびく雲の青雲の星離り行き月も離りて
天皇ノ崩シシ後、八年九月九日御斎会奉為レル夜、夢裏ニ習ミ賜ヘル御歌一首
0162 明日香の 清御原の宮に 天の下 知ろしめしし やすみしし 我が大王 高光る 日の皇子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡かふ波に 潮気のみ 香れる国に 味凝 あやにともしき 高光る 日の御子
大津皇子の薨しし後、大来皇女の伊勢の斎宮より上京りたまへる時、よみませる御歌二首
0163 神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君も在さなくに
0164 見まく欲り吾がする君も在さなくに何しか来けむ馬疲るるに
大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬りまつれる時、大来皇女の哀傷みてよみませる御歌二首
0165 うつそみの人なる吾や明日よりは二上山を我が兄と吾が見む
0166 磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在すと言はなくに
日並皇子の尊の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌
0167 天地の 初めの時し 久かたの 天河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひ座して 神分ち 分ちし時に 天照らす 日女の命 天をば 知ろしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知ろしめす 神の命と 天雲の 八重掻き別けて 神下り 座せまつりし 高光る 日の皇子は 飛鳥の 清御の宮に 神ながら 太敷きまして 天皇の 敷きます国と 天の原 石門を開き 神上り 上り座しぬ 我が王 皇子の命の 天の下 知ろしめしせば 春花の 貴からむと 望月の 満はしけむと 天の下 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか 由縁もなき 真弓の岡に 宮柱 太敷き座し 御殿を 高知りまして 朝ごとに 御言問はさず 日月の 数多くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 行方知らずも
反し歌二首
0168 久かたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも
0169 あかねさす日は照らせれどぬば玉の夜渡る月の隠らく惜しも
或ル本、件ノ歌ヲ以テ後ノ皇子ノ尊ノ殯宮ノ時ノ反歌ト為ス。
皇子の尊の宮の舎人等が慟傷みてよめる歌二十三首
0171 高光る我が日の皇子の万代に国知らさまし島の宮はも
0172 島の宮勾の池の放鳥荒びな行きそ君座さずとも
或ル本ノ歌一首
0170 島の宮勾の池の放鳥人目に恋ひて池に潜かず
0173 高光る我が日の皇子のいましせば島の御門は荒れざらましを
0174 外に見し真弓の岡も君座せば常つ御門と侍宿するかも
0175 夢にだに見ざりしものを欝悒しく宮出もするかさ檜隈廻を
0176 天地と共にに終へむと思ひつつ仕へ奉りし心違ひぬ
0177 朝日照る佐太の岡辺に群れ居つつ吾等が泣く涙やむ時もなし
0178 御立たしし島を見る時にはたづみ流るる涙止めぞかねつる
0179 橘の島の宮には飽かねかも佐太の岡辺に侍宿しに往く
0180 御立たしし島をも家と栖む鳥も荒びな行きそ年替るまで
0181 御立たしし島の荒礒を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも
0182 鳥座立て飼ひし雁の子巣立ちなば真弓の岡に飛び還り来ね
0183 我が御門千代常磐に栄えむと思ひてありし吾し悲しも
0184 東の滝の御門に侍へど昨日も今日も召すことも無し
0185 水伝ふ礒の浦廻の石躑躅茂く咲く道をまたも見むかも
0186 一日には千たび参りし東の滝の御門を入りかてぬかも
0187 所由もなき佐太の岡辺に君居せば島の御階に誰か住まはむ
0188 あかねさす日の入りぬれば御立たしし島に下り居て嘆きつるかも
0189 朝日照る島の御門に欝悒しく人音もせねば真心悲しも
0190 真木柱太き心はありしかどこの吾が心鎮めかねつも
0191 けころもを春冬かたまけて幸しし宇陀の大野は思ほえむかも
0192 朝日照る佐太の岡辺に鳴く鳥の夜鳴きかへらふこの年ごろを
0193 奴らが夜昼と云はず行く路を吾はことごと宮道にぞする
右、日本紀ニ曰ク、三年己丑夏四月癸未朔乙未薨セリ。
河島皇子の殯宮の時、柿本朝臣人麿が泊瀬部皇女に献れる歌一首、また短歌*
0194 飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 生ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ触らふ 玉藻なす か寄りかく寄り 靡かひし 夫の命の たたなづく 柔膚すらを 剣刀 身に添へ寝ねば ぬば玉の 夜床も荒るらむ そこ故に 慰めかねて けだしくも 逢ふやと思ほして 玉垂の 越智の大野の 朝露に 玉藻はひづち 夕霧に 衣は濡れて 草枕 旅寝かもする 逢はぬ君故
反し歌一首
0195 敷布の袖交へし君玉垂の越智野に過ぎぬまたも逢はめやも
右*、日本紀ニ云ク、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑、浄大参皇子川嶋薨セリ。
高市皇子の尊の、城上の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌
0199 かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神の原に 久かたの 天つ御門を 畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠ります やすみしし 我が王の きこしめす 背面の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮に 天降り座して 天の下 治めたまひ 食す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の 御軍士を 召したまひて 千磐破る 人を和せと 奉ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任きたまへば 大御身に 大刀取り帯ばし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を 率ひたまひ 整ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き響せる 小角の音も 敵見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに 差上げたる 幡の靡きは 冬こもり 春さり来れば 野ごとに つきてある火の 風の共 靡くがごとく 取り持たる 弓弭の騒き み雪降る 冬の林に 旋風かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐く 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱りて来れ 奉はず 立ち向ひしも 露霜の 消なば消ぬべく 去く鳥の 争ふはしに 度會の 斎ひの宮ゆ 神風に 息吹惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷き座す やすみしし 我が大王の 天の下 奏したまへば 万代に 然しもあらむと 木綿花の 栄ゆる時に 我が大王 皇子の御門を 神宮に 装ひ奉りて 遣はしし 御門の人も 白布の 麻衣着て 埴安の 御門の原に あかねさす 日のことごと 獣じもの い匍ひ伏しつつ ぬば玉の 夕へになれば 大殿を 振り放け見つつ 鶉なす い匍ひ廻り 侍へど 侍ひかねて 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 憶ひも いまだ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ 神葬り 葬り行して あさもよし 城上の宮を 常宮と 定め奉りて 神ながら 鎮まり座しぬ しかれども 我が大王の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏かれども
短歌二首
0200 久かたの天知らしぬる君故に日月も知らに恋ひわたるかも
0201 埴安の池の堤の隠沼の行方を知らに舎人は惑ふ
或ル書ノ反歌一首
0202 哭澤の神社に神酒据ゑ祈まめども我が王は高日知らしぬ
右ノ一首ハ、類聚歌林ニ曰ク、檜隈女王、泣澤ノ神社ヲ怨メル歌ナリ。日本紀ニ案ルニ曰ク、〔持統天皇〕十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後ノ皇子尊薨セリ。
弓削皇子の薨せる時、置始東人がよめる歌一首、また短歌
0204 やすみしし 我が王 高光る 日の皇子 久かたの 天つ宮に 神ながら 神と座せば そこをしも あやに畏み 昼はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと 臥し居嘆けど 飽き足らぬかも
反し歌一首
0205 王は神にしませば天雲の五百重が下に隠りたまひぬ
0206 楽浪の志賀さざれ波しくしくに常にと君が思ほえたりける
明日香皇女の城上の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌*
0196 飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひををれる 川藻もぞ 枯るれば生ゆる なにしかも 我が王の 立たせば 玉藻のごと 臥やせば 川藻のごとく 靡かひし 宜しき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背きたまふや うつそみと 思ひし時に 春へは 花折り挿頭し 秋立てば 黄葉挿頭し 敷布の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かに 望月の いやめづらしみ 思ほしし 君と時々 出でまして 遊びたまひし 御食向ふ 城上の宮を 常宮と 定めたまひて あぢさはふ 目言も絶えぬ そこをしも あやに悲しみ ぬえ鳥の 片恋しつつ 朝鳥の 通はす君が 夏草の 思ひ萎えて 夕星の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば 慰むる 心もあらず そこ故に 為むすべ知らに 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 思ひ行かむ 御名に懸かせる 明日香川 万代までに はしきやし 我が王の 形見にここを
短歌二首
0197 明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどにかあらまし
0198 明日香川明日さへ見むと思へやも我が王の御名忘れせぬ
柿本朝臣人麿が、妻の死りし後、泣血哀慟よめる歌二首、また短歌
0207 天飛ぶや 輕の路は 我妹子が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み 数多く行かば 人知りぬべみ さね葛 後も逢はむと 大船の 思ひ頼みて 玉蜻の 磐垣淵の 隠りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れゆくがごと 照る月の 雲隠るごと 沖つ藻の 靡きし妹は もみち葉の 過ぎて去にしと 玉梓の 使の言へば 梓弓 音のみ聞きて 言はむすべ 為むすべ知らに 音のみを 聞きてありえねば 吾が恋ふる 千重の一重も 慰むる 心もありやと 我妹子が 止まず出で見し 輕の市に 吾が立ち聞けば 玉たすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉ほこの 道行く人も 一人だに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる
短歌二首
0208 秋山の黄葉を茂み惑はせる妹を求めむ山道知らずも
0209 もちみ葉の散りぬるなべに玉梓の使を見れば逢ひし日思ほゆ
0210 うつせみと 思ひし時に たづさへて 吾が二人見し 走出の 堤に立てる 槻の木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど 頼めりし 子らにはあれど 世間を 背きしえねば 蜻火の 燃ゆる荒野に 白布の 天領巾隠り 鳥じもの 朝発ち行して 入日なす 隠りにしかば 我妹子が 形見に置ける 若き児の 乞ひ泣くごとに 取り与ふ 物しなければ 男じもの 脇ばさみ持ち 我妹子と 二人吾が寝し 枕付く 妻屋のうちに 昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし 嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥の 羽易の山に 吾が恋ふる 妹はいますと 人の言へば 岩根さくみて なづみ来し よけくもぞなき うつせみと 思ひし妹が 玉蜻の 髣髴にだにも 見えぬ思へば
短歌二首
0211 去年見てし秋の月夜は照らせれど相見し妹はいや年離る
0212 衾道を引手の山に妹を置きて山道を往けば生けるともなし
或ル本ノ歌ニ曰ク
0213 うつそみと 思ひし時に 手たづさひ 吾が二人見し 出立の 百枝槻の木 こちごちに 枝させるごと 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど 恃めりし 妹にはあれど 世の中を 背きしえねば かぎろひの 燃ゆる荒野に 白布の 天領巾隠り 鳥じもの 朝発ちい行きて 入日なす 隠りにしかば 我妹子が 形見に置ける 緑児の 乞ひ泣くごとに 取り委す 物しなければ 男じもの 脇ばさみ持ち 吾妹子と 二人吾が寝し 枕付く 妻屋のうちに 昼は うらさび暮らし 夜は 息づき明かし 嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥の 羽易の山に 汝が恋ふる 妹はいますと 人の言へば 岩根さくみて なづみ来し よけくもぞなき うつそみと 思ひし妹が 灰而座者*
短歌
0214 去年見てし秋の月夜は渡れども相見し妹はいや年離る
0215 衾道を引手の山に妹を置きて山路思ふに生けるともなし
0216 家に来て妻屋を見れば玉床の外に向かひけり妹が木枕
志賀津釆女*が死れる時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌
0217 秋山の したべる妹 なよ竹の 嫋依る子らは いかさまに 思ひ居せか 栲縄の 長き命を 露こそは 朝に置きて 夕へは 消ぬといへ 霧こそは 夕へに立ちて 朝は 失すといへ 梓弓 音聞く吾も 髣髴に見し こと悔しきを 敷布の 手枕まきて 剣刀 身に添へ寝けむ 若草の その夫の子は 寂しみか 思ひて寝らむ 悔しみか 思ひ恋ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが 朝露のごと 夕霧のごと
短歌二首
0218 楽浪の志賀津の子らが罷りにし川瀬の道を見れば寂しも
0219 左々数の*大津の子が逢ひし日におほに見しかば今ぞ悔しき
讃岐国狭岑島にて石中の死人を視て、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌
0220 玉藻よし 讃岐の国は 国柄か 見れども飽かぬ 神柄か ここだ貴き 天地 日月とともに 満り行かむ 神の御面と 云ひ継げる 那珂の港ゆ 船浮けて 吾が榜ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば しき波立ち 辺見れば 白波騒く 鯨魚取り 海を畏み 行く船の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど 名ぐはし 狭岑の島の 荒磯廻に 廬りて見れば 波の音の 繁き浜辺を 敷布の 枕になして 荒床に 転臥す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉ほこの 道だに知らず 欝悒しく 待ちか恋ふらむ 愛しき妻らは
反し歌二首
0221 妻もあらば摘みて食げまし狭岑山野の上のうはぎ過ぎにけらずや
0222 沖つ波来寄る荒礒を敷布の枕とまきて寝せる君かも
柿本朝臣人麿が石見国に在りて死らむとする時、自傷みよめる歌一首
0223 鴨山の磐根し枕ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ
柿本朝臣人麿が死れる時、妻依羅娘子がよめる歌二首
0224 今日今日と吾が待つ君は石川の貝に交りてありといはずやも
0225 直に逢はば逢ひもかねてむ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ
丹比真人が柿本朝臣人麿が意に擬へて報ふる歌
0226 荒波に寄せ来る玉を枕に置き吾ここにありと誰か告げけむ
或る本の歌に曰く
0227 天ざかる夷の荒野に君を置きて思ひつつあれば生けるともなし
和銅元年歳次戊申*、但馬皇女の薨へる後、穂積皇子の冬日雪落御墓を遥望けて、悲傷流涕よみませる御歌一首*
0203 降る雪は深にな降りそ吉隠の猪養の岡の塞為さまくに
四年歳次辛亥、河邊宮人が姫島の松原にて嬢子の屍を見て悲嘆みよめる歌二首
0228 妹が名は千代に流れむ姫島の小松の末に蘿生すまでに
0229 難波潟潮干なありそね沈みにし妹が姿を見まく苦しも
霊亀元年歳次乙卯秋九月、志貴親王の薨せる時、よめる歌一首〔また短歌〕*
0230 梓弓 手に取り持ちて 大夫の 幸矢手挟み 立ち向ふ 高圓山に 春野焼く 野火と見るまで 燃ゆる火を いかにと問へば 玉ほこの 道来る人の 泣く涙 霈霖に降れば 白布の 衣ひづちて 立ち留まり 吾に語らく 何しかも もとな言へる 聞けば 哭のみし泣かゆ 語れば 心そ痛き 天皇の 神の御子の 御駕の 手火の光そ ここだ照りたる
0231 高圓の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに
0232 御笠山野辺行く道はこきだくも繁く荒れたるか久にあらなくに
右ノ歌ハ、笠朝臣金村ノ歌集ニ出デタリ。或ル本ノ歌ニ曰ク
0233 高圓の野辺の秋萩な散りそね君が形見に見つつ偲はむ
0234 御笠山野辺ゆ行く道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに
天皇の雷岳に御遊せる時、柿本朝臣人麻呂がよめる歌一首
0235 皇は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも
右、或ル本ニ云ク、忍壁皇子ニ献レリ。其ノ歌ニ曰ク、
王は神にしませば雲隠る雷山に宮敷き座す
天皇の志斐嫗に賜へる御歌一首
0236 いなと言へど強ふる志斐のが強語このごろ聞かずて朕恋ひにけり
志斐嫗が和へ奉れる歌一首
0237 いなと言へど語れ語れと詔らせこそ志斐いは奏せ強語と言る
長忌寸意吉麻呂が詔を応りてよめる歌一首
0238 大宮の内まで聞こゆ網引すと網子調ふる海人の呼び声
右一首。
長皇子の猟路野に遊猟したまへる時、柿本朝臣人麻呂がよめる歌一首、また短歌
0239 やすみしし 我が大王 高光る 我が日の皇子の 馬並めて 御狩立たせる 若薦を 猟路の小野に 獣こそは い匍ひ拝め 鶉こそ い匍ひ廻れ 獣じもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻り 畏みと 仕へまつりて 久かたの 天見るごとく 真澄鏡 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき 我が大王かも
反し歌一首
0240 ひさかたの天行く月を綱に刺し我が大王は蓋にせり
或ル本ノ反歌一首
0241 皇は神にしませば真木の立つ荒山中に海を成すかも
弓削皇子の吉野に遊せる時の御歌一首
0242 滝の上の三船の山にゐる雲の常にあらむと我が思はなくに
或ル本ノ歌一首
0244 み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむと我が思はなくに
右ノ一首ハ、柿本朝臣人麻呂ノ歌集ニ出デタリ。
春日王の和へ奉れる歌一首
0243 王は千歳に座さむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや
長田王の筑紫に遣はされ水島を渡りたまふ時の歌二首
0245 聞きし如まこと貴く奇しくも神さびますかこれの水島
0246 葦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波立つなゆめ
石川大夫が和ふる歌一首
0247 沖つ波辺波立つとも我が背子が御船の泊波立ためやも
又長田王のよみたまへる歌一首
0248 隼人の薩摩の瀬戸を雲居なす遠くも吾は今日見つるかも
柿本朝臣人麻呂が覊旅の歌八首
0249 御津の崎波を恐み隠江の船寄せかねつ野島の崎に
0250 玉藻刈る敏馬を過ぎ夏草の野島の崎に舟近づきぬ
0251 淡路の野島の崎の浜風に妹が結べる紐吹き返す
0252 荒布の藤江の浦に鱸釣る海人とか見らむ旅行く吾を
0253 稲日野も行き過ぎかてに思へれば心恋しき加古の島見ゆ
0254 燭火の明石大門に入らむ日や榜ぎ別れなむ家のあたり見ず
0255 天ざかる夷の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ
0256 飼飯の海の庭よくあらし苅薦の乱れ出づ見ゆ海人の釣船
一本ニ云ク、
武庫の海の船にはあらし漁する海人の釣船波の上ゆ見ゆ
鴨君足人が香具山の歌一首、また短歌
0257 天降りつく 天の香具山 霞立つ 春に至れば 松風に 池波立ちて 桜花 木晩茂み 沖辺には 鴨妻呼ばひ 辺つ方に あぢ群騒き ももしきの 大宮人の 退り出て 遊ぶ船には 楫棹も なくて寂しも 榜ぐ人なしに
反し歌二首
0258 人榜がず有らくも著し潜きする鴛鴦と沈鳧と船の上に棲む
0259 いつの間も神さびけるか香具山の桙杉の本に苔むすまでに
或ル本ノ歌ニ云ク
0260 天降りつく 神の香具山 打ち靡く 春さり来れば 桜花 木晩茂み 松風に 池波立ち 辺つ方は あぢ群騒き 沖辺は 鴨妻呼ばひ ももしきの 大宮人の 退り出て 榜ぎにし船は 棹楫も なくて寂しも 榜がむと思へど
柿本朝臣人麻呂が新田部皇子に献れる歌一首、また短歌
0261 やすみしし 我が大王 高光る 日の皇子 敷き座す 大殿の上に 久方の 天伝ひ来る 雪じもの 往き通ひつつ いや重座せ
反し歌一首
0262 矢釣山木立も見えず降り乱る雪に騒きて参らくよしも
刑部垂麿が近江国より上来る時よめる歌一首
0263 吾が馬いたく打ちてな行きそ日並べて見ても我が行く志賀にあらなくに
柿本朝臣人麻呂が近江国より上来る時、宇治河の辺に至りてよめる歌一首
0264 物部の八十宇治川の網代木にいさよふ波の行方知らずも
長忌寸奥麻呂が歌一首
0265 苦しくも降り来る雨か神の崎狭野の渡りに家もあらなくに
柿本朝臣人麻呂が歌一首
0266 淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしぬに古思ほゆ
志貴皇子の御歌一首
0267 むささびは木末求むと足引の山の猟師に逢ひにけるかも
長屋王の故郷の歌一首
0268 我が背子が古家の里の明日香には千鳥鳴くなり君待ちかねて
阿倍女郎が屋部坂の歌一首
0269 忍ひなば我が袖もちて隠さむを焼けつつかあらむ着ずて坐しけり
高市連黒人が覊旅の歌八首
0270 旅にして物恋しきに山下の朱の赭土船沖に榜ぐ見ゆ
0271 作良田へ鶴鳴き渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き渡る
0272 四極山打ち越え見れば笠縫の島榜ぎ隠る棚無小舟
0273 磯の崎榜ぎ廻み行けば近江の海八十の水門に鶴さはに鳴く
0274 我が船は比良の湊に榜ぎ泊てむ沖へな離りさ夜更けにけり
0275 いづくに吾は宿らなむ高島の勝野の原にこの日暮れなば
0276 妹も我も一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる
一本、黒人ガ妻ノ答フル歌ニ云ク、
三河なる二見の道ゆ別れなば我が背も吾も独りかも行かむ
0277 早来ても見てましものを山背の高槻の村*散りにけるかも
石川女郎が歌一首
0278 志賀の海女は昆布苅り塩焼き暇無み髪梳の小櫛取りも見なくに
高市連黒人が歌二首
0279 我妹子に猪名野は見せつ名次山角の松原いつか示さむ
0280 いざ子ども大和へ早く白菅の真野の榛原手折りて行かむ
黒人が妻の答ふる歌一首
0281 白菅の真野の榛原往くさ来さ君こそ見らめ真野の榛原
春日蔵首老が歌一首
0282 つぬさはふ磐余も過ぎず泊瀬山いつかも越えむ夜は更けにつつ
高市連黒人が歌一首
0283 住吉の得名津に立ちて見渡せば武庫の泊ゆ出づる船人
春日蔵首老が歌一首
0284 焼津辺に吾が行きしかば駿河なる阿倍の市道に逢ひし子らはも
丹比真人笠麻呂が、紀伊国に往き、勢の山を超ゆる時よめる歌一首
0285 栲領巾の懸けまく欲しき妹の名をこの勢の山に懸けばいかにあらむ
春日蔵首老が即ち和ふる歌一首
0286 よろしなべ吾が背の君が負ひ来にしこの勢の山を妹とは呼ばじ
志賀に幸せる時、石上の卿のよみたまへる歌一首
0287 ここにして家やも何処白雲の棚引く山を越えて来にけり
穂積朝臣老が歌一首
0288 我が命のま幸くあらば亦も見む志賀の大津に寄する白波
間人宿禰大浦が初月の歌二首
0289 天の原振り放け見れば白真弓張りて懸けたり夜道は行かむ
0290 倉椅の山を高みか夜隠に出で来る月の光乏しき
小田事主が勢の山の歌一首
0291 真木の葉のしなふ勢の山偲はずて吾が越え行けば木の葉知りけむ
録兄麻呂*が歌四首
0292 久方の天の探女が岩船の泊てし高津は浅せにけるかも
0293 潮干の御津の海女の藁袋持ち玉藻苅るらむいざ行きて見む
0294 風をいたみ沖つ白波高からし海人の釣船浜に帰りぬ
0295 住吉の岸の松原遠つ神我が王の幸行処
田口益人大夫が上野の国司に任けらるる時、駿河国浄見埼に至りてよめる歌二首
0296 廬原の清見が崎の三穂の浦のゆたけき見つつ物思ひもなし
0297 昼見れど飽かぬ田子の浦大王の命畏み夜見つるかも
辨基が歌一首
0298 真土山夕越え行きて廬前の角太川原に独りかも寝む
大納言大伴の卿の歌一首
0299 奥山の菅の葉凌ぎ降る雪の消なば惜しけむ雨な降りそね
長屋王の馬を寧樂山に駐めてよみたまへる歌二首
0300 佐保過ぎて寧樂の手向に置く幣は妹を目離れず相見しめとそ
0301 岩が根の凝重く山を越えかねて哭には泣くとも色に出でめやも
中納言安倍廣庭の卿の歌一首
0302 子らが家道やや間遠きをぬば玉の夜渡る月に競ひあへむかも
柿本朝臣人麻呂が筑紫国に下れる時、海路にてよめる歌二首
0303 名ぐはしき印南の海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は
0304 大王の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ
高市連黒人の近江の旧き都の歌一首
0305 かく故に見じと言ふものを楽浪の旧き都を見せつつもとな
伊勢国に幸せる時、安貴王のよみたまへる歌一首
0306 伊勢の海の沖つ白波花にもが包みて妹が家苞にせむ
博通法師が紀伊国に往きて三穂の石室を見てよめる歌三首
0307 はた薄久米の若子が座しけむ三穂の石室は荒れにけるかも
0308 常磐なす石室は今も在りけれど住みける人そ常なかりける
0309 石室戸に立てる松の樹汝を見れば昔の人を相見るごとし
門部王の東の市の樹を詠みたまへる作歌一首
0310 東の市の植木の木垂るまで逢はず久しみうべ恋ひにけり
按作村主益人が豊前国より京に上る時よめる歌一首
0311 梓弓引き豊国の鏡山見ず久ならば恋しけむかも
式部卿藤原宇合の卿に、難波の堵を改め造らしめたまへる時よめる歌一首
0312 昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都と都びにけり
土理宣令が歌一首
0313 み吉野の滝の白波知らねども語りし継げば古思ほゆ
波多朝臣少足が歌一首
0314 小波礒越道なる能登瀬川音の清けさ激つ瀬ごとに
暮春之月、芳野の離宮に幸せる時、中納言大伴の卿の勅を奉りてよみたまへる歌一首、また短歌 奏上ヲ逕ザル歌
0315 み吉野の 吉野の宮は 山柄し 貴くあらし 川柄し 清けくあらし 天地と 長く久しく 万代に 変らずあらむ 行幸の宮
反し歌
0316 昔見し象の小川を今見ればいよよ清けく成りにけるかも
山部宿禰赤人が不盡山を望てよめる歌一首、また短歌
0317
反し歌
0318 田子の浦ゆ打ち出て見れば真白くそ*不盡の高嶺に雪は降りける
不盡山を詠める歌一首、また短歌
0319 なまよみの 甲斐の国 打ち寄する 駿河の国と
此方此方の 国のみ中ゆ 出で立てる
反し歌
0320 不盡の嶺に降り置ける雪は六月の十五日に消ぬればその夜降りけり
0321 富士の嶺を高み畏み天雲もい行きはばかり棚引くものを
右ノ一首ハ、高橋連蟲麻呂ノ歌集ノ中ニ出タリ。類ヲ以テ此ニ載ス。
山部宿禰赤人が伊豫温泉に至きてよめる歌一首、また短歌
0322 皇神祖の 神の命の 敷き座す 国のことごと 湯はしも 多にあれども 島山の 宣しき国と 凝々しかも 伊豫の高嶺の 射狭庭の 岡に立たして 歌思ひ 辞思はしし み湯の上の 木群を見れば 臣木も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず 遠き代に 神さびゆかむ 行幸処
反し歌
0323 ももしきの大宮人の熟田津に船乗りしけむ年の知らなく
神岳に登りて山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
0324 三諸の 神名備山に 五百枝さし 繁に生ひたる
栂の木の いや継ぎ嗣ぎに 玉葛 絶ゆることなく
ありつつも 止まず通はむ 明日香の
反し歌
0325 明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに
門部王の難波に在して、漁父の燭光を見てよみたまへる歌一首
0326 見渡せば明石の浦に燭す火の穂にぞ出でぬる妹に恋ふらく
或る娘子等、乾鰒を包めるを、通觀僧に贈りて、戯れに咒願を請ふ時、通觀がよめる歌一首
0327 海の沖に持ち行きて放つとも如何ぞこれが蘇りなむ
太宰少弐小野老朝臣が歌一首
0328 青丹よし寧樂の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり
防人司佑大伴四綱が歌二首
0329 やすみしし我が王の敷き座せる国の中なる都し思ほゆ
0330 藤波の花は盛りに成りにけり平城の都を思ほすや君
帥大伴の卿の歌五首
0331 吾が盛りまた変若ちめやも殆に寧樂の都を見ずかなりなむ
0332 我が命も常にあらぬか昔見し象の小川を行きて見むため
0333 浅茅原つばらつばらに物思へば故りにし郷し思ほゆるかも
0334 萱草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れぬがため
0335 我が行は久にはあらじ夢の曲瀬とは成らずて淵にありこそ
沙弥満誓が綿を詠める歌一首
0336 しらぬひ筑紫の綿は身に付けて未だは着ねど暖けく見ゆ
山上臣憶良が宴より罷るときの歌一首
0337 憶良らは今は罷らむ子泣くらむ其も彼の母も吾を待つらむそ
太宰帥大伴の卿の酒を讃めたまふ歌十三首
0338 験なき物を思はずは一坏の濁れる酒を飲むべくあらし
0339 酒の名を聖と負ほせし古の大き聖の言の宣しさ
0340 古の七の賢しき人たちも欲りせし物は酒にしあらし
0341 賢しみと物言はむよは酒飲みて酔哭するし勝りたるらし
0342 言はむすべ為むすべ知らに極りて貴き物は酒にしあらし
0343 中々に人とあらずは酒壷に成りてしかも酒に染みなむ
0344 あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む
0345 価なき宝といふとも一坏の濁れる酒に豈勝らめや
0346 夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣るに豈及かめやも
0347 世間の遊びの道に洽きは酔哭するにありぬべからし
0348 今代にし楽しくあらば来生には虫に鳥にも吾は成りなむ
0349 生まるれば遂にも死ぬるものにあれば今生なる間は楽しくを有らな
0350 黙然居りて賢しらするは酒飲みて酔泣するになほ及かずけり
沙弥満誓が歌一首
0351 世間を何に譬へむ朝開き榜ぎにし船の跡なきごとし
若湯座王の歌一首
0352 葦辺には鶴が哭鳴きて湊風寒く吹くらむ津乎の崎はも
釋通觀が歌一首
0353 み吉野の高城の山に白雲は行きはばかりて棚引けり見ゆ
日置少老が歌一首
0354 繩の浦に塩焼く煙夕されば行き過ぎかねて山に棚引く
生石村主真人が歌一首
0355 大汝少彦名の座しけむ志都の石室は幾代経ぬらむ
上古麻呂が歌一首
0356 今日もかも明日香の川の夕さらずかはづ鳴く瀬の清けかるらむ
山部宿禰赤人が歌六首
0357 繩の浦ゆ背向に見ゆる沖つ島榜ぎ廻む舟は釣しすらしも
0358 武庫の浦を榜ぎ廻む小舟粟島を背向に見つつ羨しき小舟
0359 阿倍の島鵜の住む磯に寄する波間なくこのごろ大和し思ほゆ
0360 潮干なば玉藻苅り籠め家の妹が浜苞乞はば何を示さむ
0361 秋風の寒き朝開を狭野の岡越ゆらむ君に衣貸さましを
0362 雎鳩居る磯廻に生ふる名乗藻の名は告らしてよ親は知るとも
或ル本ノ歌ニ曰ク
0363 雎鳩居る荒磯に生ふる名乗藻のよし名は告らせ親は知るとも
笠朝臣金村が鹽津山にてよめる歌二首
0364 大夫の弓末振り起こし射つる矢を後見む人は語り継ぐがね
0365 鹽津山打ち越え行けば我が乗れる馬ぞ躓く家恋ふらしも
角鹿津にて船に乗れる時、笠朝臣金村がよめる歌一首、また短歌
0366 越の海の 角鹿の浜ゆ 大舟に 真楫貫き下ろし 勇魚取り 海路に出でて 喘きつつ 我が榜ぎ行けば 大夫の 手結が浦に 海未通女 塩焼く炎 草枕 旅にしあれば 独りして 見る験無み 海神の 手に巻かしたる 玉たすき 懸けて偲ひつ 大和島根を
反し歌
0367 越の海の手結の浦を旅にして見れば羨しみ大和偲ひつ
石上大夫が歌一首
0368 大船に真楫繁貫き大王の命畏み磯廻するかも
和ふる歌一首
0369 物部の臣の壮士は大王の任の随に聞くといふものぞ
右、作者審カナラズ。但シ笠朝臣金村ノ歌集ノ中ニ出デタリ。
安倍廣庭の卿の歌一首
0370 小雨降り*との曇る夜を濡れ湿づと恋ひつつ居りき君待ちがてり
出雲守門部王の京を思ひたまふ歌一首
0371 飫宇の海の河原の千鳥汝が鳴けば我が佐保川の思ほゆらくに
山部宿禰赤人が春日野に登りてよめる歌一首、また短歌
0372 春日を 春日の山の 高座の 御笠の山に 朝さらず 雲居たなびき 容鳥の 間なく屡鳴く 雲居なす 心いさよひ その鳥の 片恋のみに 昼はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと 立ちて居て 思ひぞ吾がする 逢はぬ子故に
反し歌
0373 高座の三笠の山に鳴く鳥の止めば継がるる恋もするかも
石上乙麻呂朝臣の歌一首
0374 雨降らば着なむと思へる笠の山人にな着しめ濡れは漬づとも
湯原王の芳野にてよみたまへる歌一首
0375 吉野なる夏実の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山影にして
湯原王の宴の席の歌二首
0376 蜻蛉羽の袖振る妹を玉くしげ奥に思ふを見たまへ我君
0377 青山の嶺の白雲朝に日に常に見れどもめづらし我君
山部宿禰赤人が、贈太政大臣の藤原の家の山池を詠める歌一首
0378 昔看し旧き堤は年深み池の渚に水草生ひにけり
大伴坂上郎女が祭神の歌一首、また短歌
0379 久かたの 天の原より 生れ来し 神の命 奥山の 賢木の枝に 白紙付く 木綿取り付けて 斎瓮を 斎ひ掘り据ゑ 竹玉を 繁に貫き垂り 獣じもの 膝折り伏せ 手弱女の 襲取り懸け かくだにも 吾は祈ひなむ 君に逢はぬかも
反し歌
0380 木綿畳手に取り持ちてかくだにも吾は祈ひなむ君に逢はぬかも
右ノ歌ハ、天平五年冬十一月ヲ以テ、大伴ノ氏ノ神ニ供ヘ祭ル時、聊カ此歌ヲ作ル。故レ祭神歌ト曰フ。
筑紫娘子が行旅に贈れる歌一首 娘子、字ヲ兒島ト曰フ
0381 家思ふと心進むな風伺好くして行せ荒きその路
筑波岳に登りて、丹比真人国人がよめる歌一首、また短歌
0382 鶏が鳴く 東の国に 高山は 多にあれども 双神の 貴き山の 並み立ちの 見が欲し山と 神代より 人の言ひ継ぎ 国見する 筑波の山を 冬こもり 時じく時と 見ずて行かば まして恋しみ 雪消する 山道すらを なづみぞ吾が来し
反し歌
0383 筑波嶺を外のみ見つつありかねて雪消の道をなづみ来るかも
山部宿禰赤人が歌一首
0384 我が屋戸に韓藍蒔き生ほし枯れぬれど懲りずて亦も蒔かむとそ思ふ
仙柘枝の歌三首
0385 霰降り吉志美が岳を険しみと草取りかねて妹が手を取る
右ノ一首ハ、或ルヒト云ク、吉野ノ人味稲ノ柘枝仙媛ニ与フル歌ナリ。
0386 この夕へ柘のさ枝の流れ来ば梁は打たずて取らずかもあらむ
右一首。
0387 古に梁打つ人の無かりせばここにもあらまし柘の枝はも
右ノ一首ハ、若宮年魚麻呂ガ作。
羇旅の歌一首、また短歌
0388 海神は 霊しきものか 淡路島 中に立て置きて 白波を 伊豫に回ほし 居待月 明石の門ゆは 夕されば 潮を満たしめ 明けされば 潮を干しむ 潮騒の 波を恐み 淡路島 磯隠り居て いつしかも この夜の明けむ と侍ふに 眠の寝かてねば 滝の上の 浅野の雉 明けぬとし 立ち動むらし いざ子ども あべて榜ぎ出む 庭も静けし
反し歌
0389 島伝ひ敏馬の崎を榜ぎ廻めば大和恋しく鶴多に鳴く
右ノ歌ハ、若宮年魚麻呂之ヲ誦メリ。但シ作者ヲ審ラカニセズ。
紀皇女の御歌一首
0390 輕の池の浦廻廻る鴨すらも玉藻の上に独り寝なくに
筑紫観世音寺造りの別当沙弥満誓が歌一首
0391 鳥総立て足柄山に船木伐り木に伐り去きつあたら船木を
太宰大監大伴宿禰百代が梅の歌一首
0392 ぬば玉のその夜の梅を手忘れて折らず来にけり思ひしものを
満誓沙弥が月の歌一首
0393 見えずとも誰恋ひざらめ山の端にいさよふ月を外に見てしか
金明軍が歌一首
0394 標結ひて我が定めてし住吉の浜の小松は後も我が松
笠郎女が大伴宿禰家持に贈れる歌三首
0395 託馬野に生ふる紫草衣染め未だ着ずして色に出でにけり
0396 陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆちふものを
0397 奥山の磐本菅を根深めて結びし心忘れかねつも
藤原朝臣八束が梅の歌二首
0398 妹が家に咲きたる梅の何時も何時も成りなむ時に事は定めむ
0399 妹が家に咲きたる花の梅の花実にし成りなばかもかくもせむ
大伴宿禰駿河麻呂が梅の歌一首
0400 梅の花咲きて散りぬと人は言へど我が標結ひし枝ならめやも
大伴坂上郎女が、親族と宴する日、吟へる歌一首
0401 山守のありける知らにその山に標結ひ立てて結の恥しつ
大伴宿禰駿河麻呂が即ち和ふる歌一首
0402 山守は蓋しありとも我妹子が結ひけむ標を人解かめやも
0403 朝に日に見まく欲しけきその玉を如何にしてかも手ゆ離れざらむ
娘子が佐伯宿禰赤麿に報ふる贈歌一首
0404 ちはやぶる神の社し無かりせば春日の野辺に粟蒔かましを
佐伯宿禰赤麿がまた贈れる歌一首
0405 春日野に粟蒔けりせば鹿待ちに継ぎて行かましを社し有りとも
娘子がまた報ふる歌一首
0406 吾は祭る神にはあらず大夫に憑きたる神ぞよく祭るべき
大伴宿禰駿河麻呂が同じ坂上の家の二嬢を娉ふ歌一首
0407 春霞春日の里の殖小水葱苗なりと言ひし枝はさしにけむ
大伴宿禰家持が同じ坂上の家の大嬢に贈れる歌一首
0408 石竹がその花にもが朝旦手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ
大伴宿禰駿河麻呂が同じ坂上の家の二嬢に贈れる歌一首
0409 一日には千重波敷きに思へどもなぞその玉の手に巻き難き
大伴坂上郎女が橘の歌一首
0410 橘を屋戸に植ゑ生ほせ立ちて居て後に悔ゆとも験あらめやも
大伴宿禰駿河麻呂が和ふる歌一首
0411 我妹子が屋戸の橘いと近く植ゑてし故に成らずは止まじ
市原王の歌一首
0412 頂に著統める玉は二つ無しかにもかくにも君がまにまに
某の歌二首
0436 人言の繁きこの頃玉ならば手に巻き持ちて恋ひざらましを
0437 妹も吾も清御の川の川岸の妹が悔ゆべき心は持たじ
大網公人主が宴に吟へる歌一首
0413 須磨の海人の塩焼衣の藤衣間遠くしあれば未だ着馴れず
大伴宿禰家持が歌一首
0414 足引の岩根こごしみ菅の根を引かば難みと標のみそ結ふ
上宮聖徳皇子の竹原井に出遊せる時、龍田山に死れる人を見して悲傷みよみませる御歌一首
0415 家にあらば妹が手纏かむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ
大津皇子の被死はえたまへる時、磐余の池の陂にて流涕みよみませる御歌一首
0416 つぬさはふ*磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
右、藤原宮、朱鳥元年冬十月。
河内王を豊前国鏡山に葬れる時、手持女王のよみたまへる歌三首
0417 王の親魄あへや豊国の鏡の山を宮と定むる
0418 豊国の鏡の山の石戸闔て隠りにけらし待てど来まさぬ
0419 石戸破る手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく
石田王の卒せたまへる時、丹生王のよみたまへる歌一首、また短歌
0420 なゆ竹の 嫋寄る皇子 さ丹頬ふ 我が大王は 隠国の 初瀬の山に 神さびて 斎き坐すと 玉づさの 人ぞ言ひつる 妖言か 吾が聞きつる 狂言か 吾が聞きつるも 天地に 悔しきことの 世間の 悔しきことは 天雲の そくへの極み 天地の 至れるまでに 杖つきも つかずも行きて 夕占問ひ 石卜以ちて 我が屋戸に 御室を建てて 枕辺に 斎瓮を据ゑ 竹玉を 無間に貫き垂り 木綿たすき 肘に懸けて 天なる ささらの小野の 斎ひ菅 手に取り持ちて 久かたの 天の川原に 出で立ちて 禊ぎてましを 高山の 巌の上に 座せつるかも
反し歌
0421 逆言の狂言とかも高山の巌の上に君が臥やせる
0422 石上布留の山なる杉群の思ひ過ぐべき君にあらなくに
同じ〔石田王卒之〕時、山前王の哀傷みよみたまへる歌一首
0423 つぬさはふ 磐余の道を 朝さらず 行きけむ人の 思ひつつ 通ひけまくは 霍公鳥 来鳴く五月は 菖蒲 花橘を 玉に貫き 蘰にせむと 九月の しぐれの時は 黄葉を 折り挿頭さむと 延ふ葛の いや遠長く 万代に 絶えじと思ひて 通ひけむ 君を明日よは 外にかも見む
或ル本ノ反歌二首
0424 隠国の泊瀬娘子が手に巻ける玉は乱れてありと言はずやも
0425 川風の寒き長谷を嘆きつつ君が歩くに似る人も逢へや
柿本朝臣人麻呂が香具山にて屍を見て悲慟みよめる歌一首
0426 草枕旅の宿りに誰が夫か国忘れたる家待たなくに
田口廣麿が死れる時、刑部垂麻呂がよめる歌一首
0427 百足らず八十の隈坂に手向せば過ぎにし人にけだし逢はむかも
土形娘子を泊瀬山に火葬れる時、柿本朝臣人麻呂がよめる歌一首
0428 隠国の泊瀬の山の山際にいさよふ雲は妹にかもあらむ
溺れ死ねる出雲娘子を吉野に火葬れる時、柿本朝臣人麿がよめる歌二首
0429 山際ゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山の嶺にたなびく
0430 八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ
勝鹿の真間娘子が墓を過れる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
0431 古に ありけむ人の 倭文幡の 帯解き交へて 臥屋建て 妻問しけむ 勝鹿の 真間の手兒名が 奥津城を こことは聞けど 真木の葉や 茂みたるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも我は 忘らえなくに
反し歌
0432 我も見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手兒名が奥津城ところ
0433 勝鹿の真間の入江に打ち靡く玉藻苅りけむ手兒名し思ほゆ
和銅四年辛亥、三穂の浦を過ぐる時、姓名がよめる歌二首*
0434 風早の美保の浦廻の白躑躅見れども寂し亡き人思へば
0435 みつみつし久米の若子がい触りけむ磯の草根の枯れまく惜しも
神亀五年戊辰、太宰帥大伴の卿の故人を思恋ひたまふ歌三首
0438 愛しき人の纏きてし敷布の吾が手枕を纏く人あらめや
右ノ一首ハ、別去テ数旬ヲ経テ作メル歌。
0439 帰るべき時は来にけり都にて誰が手本をか吾が枕かむ
0440 都なる荒れたる家に独り寝ば旅にまさりて苦しかるべし
右ノ二首ハ、京ニ向フ時ニ臨近キテ作メル歌。
〔神亀〕六年己巳、左大臣長屋王の死賜へる後、倉橋部女王のよみたまへる歌一首
0441 大皇の命畏み大殯の時にはあらねど雲隠り座す
膳部王を悲傷める歌一首
0442 世間は空しきものとあらむとぞこの照る月は満ち欠けしける
右ノ一首ハ、作者未詳。
天平元年己巳、攝津国の班田の史生丈部龍麻呂が自経死し時、判官大伴宿禰三中がよめる歌一首、また短歌
0443 天雲の 向伏す国の 武士と 言はえし人は 皇祖の 神の御門に 外重に 立ち侍ひ 内重に 仕へ奉り 玉葛 いや遠長く 祖の名も 継ぎ行くものと 母父に 妻に子どもに 語らひて 立ちにし日より 足根の 母の命は 斎瓮を 前に据ゑ置きて 一手には 木綿取り持ち 一手には 和細布奉り 平けく ま幸くませと 天地の 神に祈ひ祷み 如何にあらむ 年月日にか 躑躅花 にほへる君が にほ鳥の なづさひ来むと 立ちて居て 待ちけむ人は 王の 命畏み 押し照る 難波の国に あら玉の 年経るまでに 白布の 衣袖干さず 朝宵に ありつる君は いかさまに 思ひませか うつせみの 惜しきこの世を 露霜の 置きて去にけむ 時ならずして
反し歌
0444 昨日こそ君は在りしか思はぬに浜松の上の雲に棚引く
0445 いつしかと待つらむ妹に玉づさの言だに告げず去にし君かも
〔天平〕二年庚午冬十二月太宰帥大伴の卿の京に向きて上道する時によみたまへる歌五首
0446 我妹子が見し鞆之浦の天木香樹は常世にあれど見し人ぞなき
0447 鞆之浦の磯の杜松見むごとに相見し妹は忘らえめやも
0448 磯の上に根延ふ室の木見し人をいかなりと問はば語り告げむか
右ノ三首ハ、鞆浦ヲ過ル日ニ作メル歌。
0449 妹と来し敏馬の崎を帰るさに独りし見れば涙ぐましも
0450 行くさには二人我が見しこの崎を独り過ぐれば心悲しも
右ノ二首ハ、敏馬埼ヲ過ル日ニ作メル歌。
故郷の家に還入りて即ちよみたまへる歌三首
0451 人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり
0452 妹として二人作りし吾が山斎は木高く繁くなりにけるかも
0453 我妹子が植ゑし梅の木見るごとに心咽せつつ涙し流る
〔天平〕三年辛未秋七月、大納言大伴の卿の薨へる時の歌六首
0454 愛しきやし栄えし君のいましせば昨日も今日も吾を召さましを
0455 かくのみにありけるものを萩が花咲きてありやと問ひし君はも
0456 君に恋ひ甚もすべ無み葦鶴の哭のみし泣かゆ朝宵にして
0457 遠長く仕へむものと思へりし君し座さねば心神もなし
0458 若き子の匍ひ徘徊り朝夕に哭のみそ吾が泣く君なしにして
右の五首は、資人金明軍が犬馬の慕心に勝へず、感緒を中べてよめる歌
0459 見れど飽かず座しし君がもみち葉の移りい去けば悲しくもあるか
右の一首は、内礼正縣犬養宿禰人上に勅ちて、卿の病を検護せしむ。而して医薬験無く、逝く水留まらず。これに因りて悲慟みて即ち此歌をよめり。
七年乙亥、大伴坂上郎女が尼の理願の死去れるを悲嘆み、よめる歌一首、また短歌
0460 栲綱の 新羅の国ゆ 人言を 良しと聞かして 問ひ放くる 親族兄弟 無き国に 渡り来まして 大皇の 敷き座す国に うち日さす 都しみみに 里家は 多にあれども いかさまに 思ひけめかも 連れもなき 佐保の山辺に 泣く子なす 慕ひ来まして 敷布の 家をも造り あら玉の 年の緒長く 住まひつつ いまししものを 生まるれば 死ぬちふことに 免ろえぬ ものにしあれば 恃めりし 人のことごと 草枕 旅なる間に 佐保川を 朝川渡り 春日野を 背向に見つつ 足引の 山辺をさして 晩闇と 隠りましぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに 徘徊り ただ独りして 白布の 衣袖干さず 嘆きつつ 吾が泣く涙 有間山 雲居棚引き 雨に降りきや
反し歌
0461 留めえぬ命にしあれば敷布の家ゆは出でて雲隠りにき
右、新羅ノ国ノ尼、名ヲ理願ト曰フ。遠ク王徳ヲ感ジテ聖朝ニ帰化ス。時ニ大納言大将軍大伴卿ノ家ニ寄住シ、既ニ数紀ヲ経タリ。惟ニ天平七年乙亥ヲ以テ、忽ニ運病ニ沈ミテ、既ニ泉界ニ趣ク。是ニ大家石川命婦、餌薬ノ事ニ依リテ有間温泉ニ往キテ、此ノ喪ニ会ハズ。但郎女独リ留リテ屍柩ヲ葬送スルコト既ニ訖リヌ。仍チ此ノ歌ヲ作ミテ温泉ニ贈入ル。
十一年己卯夏六月、大伴宿禰家持が亡れる妾を悲傷みよめる歌一首
0462 今よりは秋風寒く吹きなむを如何でか独り長き夜を寝む
弟大伴宿禰書持が即ち和ふる歌一首
0463 長き夜を独りや寝むと君が言へば過ぎにし人の思ほゆらくに
又家持が砌の上の瞿麦の花を見てよめる歌一首
0464 秋さらば見つつ偲へと妹が植ゑし屋戸の石竹咲きにけるかも
月移りて後、秋風を悲嘆みて家持がよめる歌一首
0465 うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒く偲ひつるかも
又家持がよめる歌一首、また短歌
0466 我が屋戸に 花ぞ咲きたる そを見れど 心もゆかず 愛しきやし 妹がありせば 御鴨なす 二人並び居 手折りても 見せましものを うつせみの 借れる身なれば 露霜の 消ぬるがごとく 足引の 山道をさして 入日なす 隠りにしかば そこ思ふに 胸こそ痛め 言ひもかね 名づけも知らに 跡も無き 世間なれば 為むすべもなし
反し歌
0467 時はしもいつもあらむを心痛くい去く我妹か若き子置きて
0468 出で行かす道知らませば予め妹を留めむ塞も置かましを
0469 妹が見し屋戸に花咲く時は経ぬ吾が泣く涙いまだ干なくに
悲緒息まずてまたよめる歌五首
0470 かくのみにありけるものを妹も吾も千歳のごとく恃みたりけり
0471 家離りいます我妹を留みかね山隠りつれ心神もなし
0472 世間し常かくのみとかつ知れど痛き心は忍ひかねつも
0473 佐保山に棚引く霞見るごとに妹を思ひ出泣かぬ日はなし
0474 昔こそ外にも見しか我妹子が奥津城と思へば愛しき佐保山
十六年甲申春二月、安積皇子の薨へる時、内舎人大伴宿禰家持がよめる歌六首
0475 かけまくも あやに畏し 言はまくも ゆゆしきかも 我が王 御子の命 万代に 食したまはまし 大日本 久迩の都は 打ち靡く 春さりぬれば 山辺には 花咲きををり 川瀬には 鮎子さ走り いや日異に 栄ゆる時に 逆言の 狂言とかも 白布に 舎人装ひて 和束山 御輿立たして 久かたの 天知らしぬれ 臥い転び 沾ち泣けども 為むすべもなし
反し歌
0476 我が王天知らさむと思はねば凡にぞ見ける和束杣山
0477 足引の山さへ光り咲く花の散りぬるごとき我が王かも
右ノ三首ハ、二月三日ニ作メル歌。
0478 かけまくも あやに畏し 我が王 皇子の命 物部の 八十伴男を 召し集へ 率ひたまひ 朝猟に 鹿猪踏み起こし 夕猟に 鶉雉踏み立て 大御馬の 口抑へとめ 御心を 見し明らめし 活道山 木立の繁に 咲く花も うつろひにけり 世間は かくのみならし 大夫の 心振り起こし 剣刀 腰に取り佩き 梓弓 靫取り負ひて 天地と いや遠長に 万代に かくしもがもと 恃めりし 皇子の御門の 五月蝿なす 騒く舎人は 白栲に 衣取り着て 常なりし 咲ひ振舞ひ いや日異に 変らふ見れば 悲しきろかも
反し歌
0479 愛しきかも皇子の命のあり通ひ見しし活道の道は荒れにけり
0480 大伴の名に負ふ靫帯びて万代に憑みし心いづくか寄せむ
右ノ三首ハ、三月二十四日ニ作メル歌。
死せたる妻を悲傷み高橋朝臣がよめる歌一首、また短歌
0481 白布の 袖さし交へて 靡き寝し 我が黒髪の ま白髪に 変らむ極み 新世に 共にあらむと 玉の緒の 絶えじい妹と 結びてし 言は果たさず 思へりし 心は遂げず 白布の 手本を別れ 和びにし 家ゆも出でて 緑児の 泣くをも置きて 朝霧の 髣髴になりつつ 山背の 相楽山の 山際ゆ 往き過ぎぬれば 言はむすべ 為むすべ知らに 我妹子と さ寝し妻屋に 朝庭に 出で立ち偲ひ 夕べには 入り居嘆かひ 脇はさむ 子の泣くごとに 男じもの 負ひみ抱きみ 朝鳥の 啼のみ泣きつつ 恋ふれども 験を無みと 言問はぬ ものにはあれど 我妹子が 入りにし山を 縁とぞ思ふ
反し歌
0482 うつせみの世のことなれば外に見し山をや今は縁と思はむ
0483 朝鳥の啼のみし泣かむ我妹子に今また更に逢ふよしを無み
右ノ三首ハ、七月廿日、高橋朝臣ガ作メル歌。難波天皇の妹の、山跡に在す皇兄に奉上れる御歌一首
0484 一日こそ人をも待ちし*長き日をかくのみ待てば有りかてなくも
岳本天皇のみよみませる御製歌一首、また短歌
0485 神代より 生れ継ぎ来れば 人さはに 国には満ちて あぢ群の 騒きはゆけど* 吾が恋ふる 君にしあらねば 昼は 日の暮るるまで 夜は 夜の明くる極み 思ひつつ 寝かてにのみ 明かしつらくも 長きこの夜を
反し歌
0486 山の端にあぢ群騒き行くなれど吾は寂しゑ君にしあらねば
0487 近江路の鳥籠の山なる不知哉川日のこの頃は恋ひつつもあらむ
額田王の近江天皇を思ひまつりてよみたまへる歌一首
0488 君待つと吾が恋ひ居れば我が屋戸の簾動かし秋の風吹く
鏡女王のよみたまへる歌一首
0489 風をだに恋ふるは羨し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ
吹黄刀自が歌二首
0490 真野の浦の淀の継橋心ゆも思へや妹が夢にし見ゆる
0491 河上のいつ藻の花のいつもいつも来ませ我が背子時じけめやも
田部忌寸櫟子が太宰に任けらるる時の歌四首
0492 衣手に取りとどこほり泣く子にも益れる吾を置きて如何にせむ 舎人千年*
0493 置きてゆかば妹恋ひむかも敷細の黒髪敷きて長きこの夜を 田部忌寸櫟子
0494 吾妹子を相知らしめし人をこそ恋の増されば恨めしみ思へ
0495 朝日影にほへる山に照る月の飽かざる君を山越しに置きて
柿本朝臣人麻呂が歌四首
0496 み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも
0497 古にありけむ人も吾がごとか妹に恋ひつつ寝かてにけむ
0498 今のみのわざにはあらず古の人ぞ益りて哭にさへ泣きし
0499 百重にも来及かぬかもと思へかも君が使の見れど飽かざらむ
碁檀越が伊勢国に往く時、留まれる妻がよめる歌一首
0500 神風の伊勢の浜荻折り伏せて旅寝や為らむ荒き浜辺に
柿本朝臣人麻呂が歌三首
0501 処女らが袖布留山の瑞垣の久しき時ゆ思ひき我は
0502 夏野ゆく牡鹿の角の束の間も妹が心を忘れて思へや
0503 織衣の*さゐさゐしづみ家の妹に物言はず来にて思ひかねつも
柿本朝臣人麻呂が妻の歌一首
0504 君が家に吾が住坂の家道をも吾は忘らじ命死なずは
安倍女郎が歌二首
0505 今更に何をか思はむ打ち靡き心は君に寄りにしものを
0506 我が背子は物な思ひそ事しあらば火にも水にも吾無けなくに
駿河采女が歌一首
0507 敷細の枕ゆ漏る涙にそ浮寝をしける恋の繁きに
三方沙弥が歌一首
0508 衣手の別かる今宵ゆ妹も吾も甚く恋ひむな逢ふよしを無み
丹比真人笠麻呂が筑紫国に下る時よめる歌一首、また短歌
0509 臣女の 櫛笥に斎く* 鏡なす 御津の浜辺に さ丹頬ふ 紐解き放けず 吾妹子に 恋ひつつ居れば 明け暮れの 朝霧隠り 鳴く鶴の 哭のみし泣かゆ 吾が恋ふる 千重の一重も 慰むる 心も有れやと 家のあたり 吾が立ち見れば 青旗の 葛城山に 棚引ける 白雲隠り 天ざかる 夷の国辺に 直向ふ 淡路を過ぎ 粟島を 背向に見つつ 朝凪に 水手の声呼び 夕凪に 楫の音しつつ 波の上を い行きさぐくみ 岩の間を い行き廻り 稲日都麻 浦廻を過ぎて 鳥じもの なづさひ行けば 家の島 荒磯の上に 打ち靡き 繁に生ひたる 名告藻の* などかも妹に 告らず来にけむ
反し歌
0510 白妙の袖解き交へて帰り来む月日を数みて往きて来ましを
伊勢国に幸せる時、當麻麻呂の大夫が妻のよめる歌一首
0511 我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ
草嬢*が歌一首
0512 秋の田の穂田の刈りばかか寄り合はばそこもか人の吾を言成さむ
志貴皇子の御歌一首
0513 大原のこのいつ柴のいつしかと吾が思ふ妹に今宵逢へかも
阿倍女郎が歌一首
0514 我が背子が着せる衣の針目落ちず入りにけらしな我が心さへ
中臣朝臣東人が阿倍女郎に贈れる歌一首
0515 独り寝て絶えにし紐を忌々しみと為むすべ知らに哭のみしぞ泣く
阿倍女郎が答ふる歌一首
0516 吾が持たる三筋に搓れる糸もちて付けてましもの今ぞ悔しき
大納言大将軍兼大伴の卿の歌一首
0517 神樹にも手は触るちふをうつたへに人妻といへば触れぬものかも
石川郎女が歌一首
0518 春日野の山辺の道を随身無く通ひし君が見えぬ頃かも
大伴女郎が歌一首
0519 雨障み常せす君は久かたの昨夜の雨に懲りにけむかも
後の人の追ひて和ふる歌一首
0520 久かたの雨も降らぬか雨つつみ君に副ひてこの日暮らさむ
藤原宇合の大夫が遷任されて京に上る時、常陸娘子が贈れる歌一首
0521 庭に立ち麻を刈り干し重慕ふ*東女を忘れたまふな
京職大夫藤原の大夫が大伴坂上郎女に賜れる歌三首
0522 娘子らが玉匣なる玉櫛の魂消むも妹に逢はずあれば
0523 よく渡る人は年にもありちふをいつの程そも吾が恋ひにける
0524 蒸衾柔が下に臥せれども妹とし寝ねば肌し寒しも
大伴坂上郎女が和ふる歌四首
0525 佐保川の小石踏み渡りぬば玉の黒馬の来夜は年にもあらぬか
0526 千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波やむ時もなし吾が恋ふらくは
0527 来むと言ふも来ぬ時あるを来じと言ふを来むとは待たじ来じと言ふものを
0528 千鳥鳴く佐保の川門の瀬を広み打橋渡す汝が来と思へば
右郎女ハ、佐保大納言卿ノ女ナリ。初メ一品穂積皇子ニ嫁ギ、寵被ルコト儔無シ。皇子薨シシ後、藤原麻呂大夫郎女ヲ娉フ。郎女坂上ノ里ニ家ス。仍レ族氏ヲ坂上郎女ト号フナリ。
また大伴坂上郎女が歌一首
0529 佐保川の岸の高処の柴な刈りそね在りつつも春し来たらば立ち隠るがね
天皇の海上女王に賜へる御歌一首
0530 赤駒の越ゆる馬柵の標結ひし妹が心は疑ひも無し
右、今案フルニ、此ノ歌擬古ノ作ナリ。但往当便ヲ以テ斯ノ歌ヲ賜ヘルカ。
海上女王の和へ奉る歌一首
0531 梓弓爪ひく夜音の遠音にも君が御言を聞かくしよしも
大伴宿奈麻呂宿禰が歌二首
0532 打日さす宮に行く子をま悲しみ留むは苦し遣るはすべなし
0533 難波潟潮干のなごり飽くまでに人の見む子を吾し羨しも
安貴王の歌一首、また短歌
0534 遠妻の ここに在らねば 玉ほこの 道をた遠み 思ふそら 安からなくに 嘆くそら 安からぬものを み空行く 雲にもがも 高飛ぶ 鳥にもがも 明日往きて 妹に言問ひ 吾が為に 妹も事無く 妹が為 吾も事無く 今も見しごと 副ひてもがも
反し歌
0535 敷細の手枕まかず間置きて年そ経にける逢はなく思へば
右、安貴王、因幡八上釆女ヲ娶リ、係念極テ甚シク、愛情尤モ盛ナリ。時ニ勅シテ不敬ノ罪ニ断ジ、本郷ニ退却ク。是ニ王意悼怛、聊カ此歌ヲ作メリト。
門部王の恋の歌一首
0536 飫宇の海の潮干の潟の片思に思ひやゆかむ道の長手を
右、門部王、出雲守ニ任ラル時、部内ノ娘子ヲ娶ル。未ダ幾時モ有ラズ、既ニ往来絶ユ。累月ノ後、更ニ愛心ヲ起コス。仍レ此歌ヲ作ミテ娘子ニ贈致レリ。
高田女王の今城王に贈りたまへる歌六首
0537 言清く甚もな言ひそ一日だに君いし無くば忍ひ堪へぬもの*
0538 人言を繁み言痛み逢はざりき心あるごとな思ひ我が背子
0539 我が背子し遂げむと言はば人言は繁くありとも出でて逢はましを
0540 我が背子にまたは逢はじかと思へばか今朝の別れのすべなかりつる
0541 現世には人言繁し来生にも逢はむ我が背子今ならずとも
0542 常やまず通ひし君が使ひ来ず今は逢はじと動揺ひぬらし
神亀元年甲子冬十月、紀伊国に幸せる時、従駕の人に贈らむ為、娘子に誂へらえて笠朝臣金村がよめる歌一首、また短歌
0543 天皇の 行幸のまに 物部の 八十伴男と 出でゆきし 愛し夫は 天飛ぶや 軽の路より 玉たすき 畝火を見つつ あさもよし 紀路に入り立ち 真土山 越ゆらむ君は 黄葉の 散り飛ぶ見つつ 親しけく 吾をば思はず 草枕 旅をよろしと 思ひつつ 君はあらむと あそそには かつは知れども しかすがに 黙も得あらねば 我が背子が 行きのまにまに 追はむとは 千たび思へど 手弱女の 吾が身にしあれば 道守の 問はむ答を 言ひ遣らむ すべを知らにと 立ちてつまづく
反し歌
0544 後れ居て恋ひつつあらずば紀の国の妹背の山にあらましものを
0545 我が背子が跡踏み求め追ひゆかば紀の関守い留めなむかも
二年乙丑春三月、三香原の離宮に幸せる時、娘子を得て、笠朝臣金村がよめる歌一首、また短歌
0546 三香の原 旅の宿りに 玉ほこの 道の行き逢ひに 天雲の 外のみ見つつ 言問はむ 縁の無ければ 心のみ 咽せつつあるに 天地の 神事依せて 敷細の 衣手交へて 己妻と 恃める今宵 秋の夜の 百夜の長さ ありこせぬかも
反し歌
0547 天雲の外に見しより我妹子に心も身さへ寄りにしものを
0548 この夜らの早く明けなばすべを無み秋の百夜を願ひつるかも
五年戊辰、太宰の少弐石川足人の朝臣が遷任さるるとき、筑前国蘆城の駅家に餞する歌三首
0549 天地の神も助けよ草枕旅ゆく君が家に至るまで
0550 大船の思ひ頼みし君が去なば吾は恋ひむな直に逢ふまでに
0551 大和道の島の浦廻に寄する波間も無けむ吾が恋ひまくは
右の三首は、作者未詳。
大伴宿禰三依が歌一首
0552 我が君はわけをば死ねと思へかも逢ふ夜逢はぬ夜二つゆくらむ
丹生女王の太宰帥大伴の卿に贈りたまへる歌二首
0553 天雲の遠隔の極み遠けども心し行けば恋ふるものかも
0554 古りにし人の賜せる吉備の酒病めばすべなし貫簀賜らむ
太宰帥大伴の卿の大弐丹比縣守の卿の民部卿に遷任さるるに歌一首
0555 君がため醸みし待酒安の野に独りや飲まむ友無しにして
賀茂女王の大伴宿禰三依に贈りたまへる歌一首
0556 筑紫船いまだも来ねば予め荒ぶる君を見むが悲しさ
土師宿禰水道が筑紫より京に上る海路にてよめる歌二首
0557 大船を榜ぎの進みに岩に触り覆らば覆れ妹に因りてば
0558 ちはやぶる神の社に吾が懸けし幣は賜らむ妹に逢はなくに
太宰の大監大伴宿禰百代が恋の歌四首
0559 事もなく生れ来しものを老次にかかる恋にも吾は逢へるかも
0560 恋ひ死なむ後は何せむ生ける日のためこそ妹を見まく欲りすれ
0561 思はぬを思ふと言はば大野なる三笠の杜の神し知らさむ
0562 暇無く人の眉根を徒に掻かしめつつも逢はぬ妹かも
大伴坂上郎女が歌二首
0563 黒髪に白髪交り老ゆまでにかかる恋には未だ逢はなくに
0564 山菅の実ならぬことを我に寄せ言はれし君は誰とか寝らむ
賀茂女王の歌一首
0565 大伴の見つとは言はじ茜さし照れる月夜に直に逢へりとも
太宰の大監大伴宿禰百代等が駅使に贈れる歌二首
0566 草枕旅ゆく君を愛しみ副ひてぞ来し志賀の浜辺を
右の一首は、大監大伴宿禰百代。
0567 周防なる磐國山を越えむ日は手向よくせよ荒きその道
右の一首は、少典山口忌寸若麻呂。以前天平二年庚午夏六月、帥大伴卿、忽ニ瘡ヲ脚ニ生シ、枕席ニ疾苦ス。此ニ因テ駅ヲ馳セテ上奏シ、庶弟稲公、姪胡麻呂ニ遺言ヲ語ラムコトヲ望請フ。右兵庫助大伴宿禰稲公、治部少丞大伴宿禰胡麻呂ノ両人ニ勅シテ、駅ヲ給ヒ発遣シ、卿ノ病ヲ看シム。数旬ヲ逕テ幸ニ平復ヲ得。時ニ稲公等病既ニ療タルヲ以テ、府ヲ発チ京ニ上ル。是ニ大監大伴宿禰百代、少典山口忌寸若麻呂、及ビ卿ノ男家持等、駅使ヲ相送ル。共ニ夷守ノ駅家ニ到リ、聊カ飲シテ別ヲ悲シム。乃チ此歌ヲ作メリ。
太宰帥大伴の卿の大納言に任され、京に入らむとする時、府官人等、卿を筑前国蘆城駅家に餞する歌四首
0568 み崎廻の荒磯に寄する五百重波立ちても居ても我が思へる君
右の一首は、筑前の掾門部連石足。
0569 宮人の*衣染むとふ紫の心に染みて思ほゆるかも
0570 大和方に君が発つ日の近づけば野に立つ鹿も動みてぞ鳴く
右の二首は、大典麻田連陽春。
0571 月夜よし川音清けしいざここに行くも行かぬも遊びて行かむ
右の一首は、防人佑大伴四綱。
太宰帥大伴の卿の京に上りたまへる後、沙弥満誓が卿に贈れる歌二首
0572 真澄鏡見飽かぬ君に後れてや朝夕べに寂びつつ居らむ
0573 ぬば玉の黒髪変り白けても痛き恋には逢ふ時ありけり
大納言大伴の卿の和へたまへる歌二首
0574 ここに在りて筑紫やいづく白雲の棚引く山の方にしあるらし
0575 草香江の入江にあさる葦鶴のあなたづたづし友無しにして
太宰帥大伴の卿の京に上りたまひし後、筑後守葛井連大成が悲嘆きてよめる歌一首
0576 今よりは城の山道は寂しけむ吾が通はむと思ひしものを
大納言大伴の卿の、新しき袍を攝津大夫高安王に贈りたまへる歌一首
0577 我が衣人にな着せそ網引する難波壮士の手には触れれど
大伴宿禰三依が悲別の歌一首
0578 天地と共に久しく住まはむと思ひてありし家の庭はも
金明軍が大伴宿禰家持に与れる歌二首
0579 見まつりて未だ時だに変らねば年月のごと思ほゆる君
0580 足引の山に生ひたる菅の根のねもごろ見まく欲しき君かも
大伴坂上の家の大娘が大伴宿禰家持に報へ贈れる歌四首
0581 生きてあらば見まくも知らに何しかも死なむよ妹と夢に見えつる
0582 丈夫もかく恋ひけるを幼婦の恋ふる心に比へらめやも
0583 月草の移ろひやすく思へかも吾が思ふ人の言も告げ来ぬ
0584 春日山朝立つ雲の居ぬ日なく見まくの欲しき君にもあるかも
大伴坂上郎女が歌一首
0585 出でて去なむ時しはあらむを殊更に妻恋しつつ立ちて去ぬべしや
0586 相見ずは恋ひざらましを妹を見てもとなかくのみ恋ひは如何にせむ
右、一云、姉坂上郎女がよめる。
笠女郎が大伴宿禰家持に贈れる歌廿四首
0587 我が形見見つつ偲はせ荒玉の年の緒長く我も偲はむ
0588 白鳥の飛羽山松の待ちつつぞ吾が恋ひ渡るこの月ごろを
0589 衣手を折り廻む里に*ある吾を知らずぞ人は待てど来ずける
0590 あら玉の年の経ぬれば今しはとゆめよ我が背子我が名告らすな
0591 我が思ひを人に知らせや玉くしげ開きあけつと夢にし見ゆる
0592 闇の夜に鳴くなる鶴の外のみに聞きつつかあらむ逢ふとはなしに
0593 君に恋ひ甚もすべ無み奈良山の小松がもとに立ち嘆くかも
0594 我が屋戸の夕蔭草の白露の消ぬがにもとな思ほゆるかも
0595 我が命の全けむ限り忘れめやいや日に異には思ひ増すとも
0596 八百日往く浜の真砂も吾が恋にあに勝らじか沖つ島守
0597 うつせみの人目を繁み石橋の間近き君に恋ひ渡るかも
0598 恋にもぞ人は死にする水無瀬川下ゆ我痩す月に日に異に
0599 朝霧の鬱に相見し人故に命死ぬべく恋ひ渡るかも
0600 伊勢の海の磯もとどろに寄する波畏き人に恋ひ渡るかも
0601 心ゆも吾は思はざりき山河も隔たらなくにかく恋ひむとは
0602 夕されば物思ひ増さる見し人の言問ふ姿面影にして
0603 思ふにし死にするものにあらませば千たびぞ我は死に還らまし
0* 剣太刀身に取り添ふと夢に見つ何の徴そも君に逢はむため
0605 天地の神し理無くばこそ我が思ふ君に逢はず死にせめ
0606 我も思ふ人もな忘れ多奈和丹*浦吹く風のやむ時無かれ
0607 人皆を*寝よとの鐘は打つなれど君をし思へば眠ねがてぬかも
0608 相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後に額づく如し
0609 心ゆも我は思はざりき又更に我が故郷に還り来むとは
0610 近くあれば見ねどもあるをいや遠く君がいまさば有りかてましも
右の二首は、相別れて後また来贈れるなり。
大伴宿禰家持が和ふる歌二首
0611 今更に妹に逢はめやと思へかもここだ我が胸欝悒しからむ
0612 中々に黙もあらましを何すとか相見始めけむ遂げざらなくに
山口女王の大伴宿禰家持に贈りたまへる歌五首
0613 物思ふと人に見えじと生強に常に思へど有りそかねつる
0* 相思はぬ人をやもとな白妙の袖漬づまでに哭のみし泣かも
0615 我が背子は相思はずとも敷細の君が枕は夢に見えこそ
0616 剣太刀名の惜しけくも吾はなし君に逢はずて年の経ぬれば
0617 葦辺より満ち来る潮のいや増しに思へか君が忘れかねつる
大神郎女が大伴宿禰家持に贈れる歌一首
0618 さ夜中に友呼ぶ千鳥物思ふと侘び居る時に鳴きつつもとな
大伴坂上郎女が怨恨の歌一首、また短歌
0619 押し照る 難波の菅の ねもころに 君が聞こして 年深く 長くし言へば 真澄鏡 磨ぎし心を 縦してし その日の極み 波の共 靡く玉藻の かにかくに 心は持たず 大船の 頼める時に ちはやぶる 神や離けけむ うつせみの 人か障ふらむ 通はしし 君も来まさず 玉づさの 使も見えず なりぬれば 甚もすべ無み ぬば玉の 夜はすがらに 赤ら引く 日も暮るるまで 嘆けども 験を無み 思へども たつきを知らに 幼婦と 言はくも著く 小童の 哭のみ泣きつつ 徘徊り 君が使を 待ちやかねてむ
反し歌
0620 初めより長く言ひつつ恃めずはかかる思ひに逢はましものか
西海道の節度使の判官佐伯宿禰東人の妻が夫の君に贈れる歌一首
0621 間無く恋ふれにかあらむ草枕旅なる君が夢にし見ゆる
佐伯宿禰東人が和ふる歌一首
0622 草枕旅に久しく成りぬれば汝をこそ思へな恋ひそ我妹
池邊王の宴に誦ひたまへる歌一首
0623 松の葉に月は移りぬ黄葉の過ぎしや君が逢はぬ夜多み
天皇の酒人女王を思はしてみよみませる御製歌一首
0* 道に逢ひて笑まししからに降る雪の消なば消ぬがに恋ひ思ふ*我妹
高安王の、裹める鮒を娘子に贈りたまへる歌一首
0625 沖辺ゆき辺にゆき今や妹がため我が漁れる藻臥束鮒
八代女王の天皇に献らせる歌一首
0626 君により言の繁きを故郷の明日香の川に禊ぎしにゆく
0630 初花の散るべきものを人言の繁きによりて澱む頃かも
娘子が佐伯宿禰赤麻呂に報贈ふる歌一首
0627 我が手本まかむと思はむ大夫は恋水に沈み*白髪生ひにけり
佐伯宿禰赤麻呂が和ふる歌一首
0628 白髪生ふることは思はじ恋水をばかにもかくにも求めて行かむ
大伴四綱が宴席の歌一首
0629 何すとか使の来たる君をこそかにもかくにも待ち難てにすれ
湯原王の娘子に贈りたまへる歌二首
0631 愛想なき物かも人は然ばかり遠き家路を帰せし思へば
0632 目には見て手には取らえぬ月内の楓のごとき妹をいかにせむ
娘子が報贈ふる歌二首
0633 いかばかり思ひけめかも敷細の枕片去る夢に見え来し
0* 家にして見れど飽かぬを草枕旅にも夫のあるが羨しさ
湯原王のまた贈へる歌二首
0635 草枕旅には妻は率たらめど櫛笥の内の珠とこそ思へ
0636 我が衣形見に奉る敷細の枕離らさず巻きてさ寝ませ
娘子がまた報贈ふる歌一首
0637 我が背子が形見の衣嬬問に我が身は離けじ言問はずとも
湯原王のまた贈へる歌一首
0638 ただ一夜隔てしからに荒玉の月か経ぬると思ほゆるかも*
娘子がまた報贈ふる歌一首
0639 我が背子がかく恋ふれこそぬば玉の夢に見えつつ寐ねらえずけれ
湯原王のまた贈へる歌一首
0640 愛しけやし間近き里を雲居にや恋ひつつ居らむ月も経なくに
娘子がまた報贈ふる和歌一首
0641 絶ゆと言はば侘しみせむと焼大刀の諂ふことは辛しや吾君
湯原王の歌一首
0642 吾妹子に恋ひて乱れば反転に懸けて寄さむと吾が恋ひそめし
紀郎女が怨恨の歌三首
0643 世間の女にしあらば直渡り*痛背の川を渡りかねめや
0* 今は吾は侘びそしにける生の緒に思ひし君を縦さく思へば
0645 白妙の袖別るべき日を近み心に咽び哭のみし泣かゆ
大伴宿禰駿河麻呂が歌一首
0646 丈夫の思ひ侘びつつ遍多く嘆く嘆きを負はぬものかも
大伴坂上郎女が歌一首
0647 心には忘るる日無く思へども人の言こそ繁き君にあれ
大伴宿禰駿河麻呂が歌一首
0648 相見ずて日長くなりぬこの頃はいかに幸くや欝悒かし我妹
大伴坂上郎女が歌一首
0649 延ふ葛の*絶えぬ使の澱めれば事しもあるごと思ひつるかも
右、坂上郎女ハ、佐保大納言卿ノ女ナリ。駿河麻呂ハ、此ノ高市大卿ノ孫ナリ。両卿ハ兄弟ノ家、女孫姑姪ノ族ナリ。是ヲ以テ歌ヲ題シ送リ答ヘ、起居ヲ相問フ。
大伴宿禰三依が離れてまた相へるを歓ぶ歌一首
0650 我妹子は常世の国に住みけらし昔見しより変若ましにけり
大伴坂上郎女が歌二首
0651 久かたの天の露霜置きにけり家なる人も待ち恋ひぬらむ
0652 玉主に珠は授けて且々も枕と我はいざ二人寝む
大伴宿禰駿河麻呂が歌三首
0653 心には忘れぬものを偶々も見ぬ日さまねく月ぞ経にける
0* 相見ては月も経なくに恋ふと言はば虚言と吾を思ほさむかも
0655 思はぬを思ふと言はば天地の神も知らさむ邑礼左変*
大伴坂上郎女が歌六首
0656 吾のみぞ君には恋ふる我が背子が恋ふとふことは言のなぐさぞ
0657 思はじと言ひてしものを唐棣色の移ろひやすき我が心かも
0658 思へども験もなしと知るものを如何でここだく吾が恋ひ渡る
0659 予め人言繁しかくしあらばしゑや我が背子奥も如何にあらめ
0660 汝をと吾を人そ離くなるいで吾君人の中言聞きこすなゆめ
0661 恋ひ恋ひて逢へる時だに愛しき言尽してよ長しと思はば
市原王の歌一首
0662 網児の山五百重隠せる佐堤の崎小網延へし子が夢にし見ゆる
安都宿禰年足が歌一首
0663 佐保渡り我家の上に鳴く鳥の声なつかしき愛しき妻の子
大伴宿禰像見が歌一首
0* 石上降るとも雨に障まめや妹に逢はむと言ひてしものを
安倍朝臣蟲麻呂が歌一首
0665 向ひ居て見れども飽かぬ我妹子に立ち別れゆかむたづき知らずも
大伴坂上郎女が歌二首
0666 相見ずて幾許久もあらなくにここだく吾は恋ひつつもあるか
0667 恋ひ恋ひて逢ひたるものを月しあれば夜は隠るらむ暫しはあり待て
右、大伴坂上郎女ガ母石川内命婦ト、安倍朝臣蟲滿ガ母安曇外命婦トハ、同居ノ姉妹、同気ノ親ナリ。此ニ縁テ郎女ト蟲滿ト、相見ルコト踈カラズ、相談ラフコト既ニ密ナリ。聊カ戯歌ヲ作ミテ以テ問答ヲ為ス。
厚見王の歌一首
0668 朝に日に色づく山の白雲の思ひ過ぐべき君にあらなくに
春日王の歌一首
0669 足引の山橘の色に出でて語らば継ぎて逢ふこともあらむ
0670 月読の光に来ませ足引の山を隔てて遠からなくに
湯原王の和へたまへる歌一首
0671 月読の光は清く照らせれど惑へる心堪へじとぞ思ふ
安倍朝臣蟲麻呂が歌一首
0672 しづたまき数にもあらぬ我が身もち如何でここだく吾が恋ひ渡る
大伴坂上郎女が歌二首
0673 真澄鏡磨ぎし心を縦してば後に言ふとも験あらめやも
0* 真玉つく彼此兼ねて言ひは言へど逢ひて後こそ悔はありといへ
中臣女郎が大伴宿禰家持に贈れる歌五首
0675 をみなへし佐紀沢に生ふる花かつみ嘗ても知らぬ恋もするかも
0676 海の底奥を深めて我が思へる君には逢はむ年は経ぬとも
0677 春日山朝居る雲の鬱しく知らぬ人にも恋ふるものかも
0678 直に逢ひて見てばのみこそ玉きはる命に向ふ吾が恋やまめ
0679 いなと言はば強ひめや我が背菅の根の思ひ乱れて恋ひつつもあらむ
大伴宿禰家持が交遊と久しく別るる歌三首
0680 けだしくも人の中言聞かせかもここだく待てど君が来まさぬ
0681 中々に絶ゆとし言はばかくばかり生の緒にして吾が恋ひめやも
0682 思ふらむ人にあらなくにねもごろに心尽して恋ふる我かも
大伴坂上郎女が歌七首
0683 物言ひの畏き国ぞ紅の色にな出でそ思ひ死ぬとも
0* 今は吾は死なむよ我が背生けりとも我に依るべしと言ふと言はなくに
0685 人言を繁みや君を二鞘の家を隔てて恋ひつつ居らむ
0686 この頃は千歳や行きも過ぎにしと我やしか思ふ見まく欲りかも
0687 うるはしと吾が思ふ心速川の塞は塞くとも猶や崩えなむ
0688 青山を横ぎる雲のいちしろく我と笑まして人に知らゆな
0689 海山も隔たらなくに何しかも目言をだにもここだ乏しき
大伴宿禰三依が悲別の歌一首
0690 照らす日を闇に見なして泣く涙衣濡らしつ干す人無しに
大伴宿禰家持が娘子に贈れる歌二首
0691 ももしきの大宮人は多けども心に乗りて思ほゆる妹
0692 愛想無き妹にもあるかもかく許り人の心を尽せる思へば
大伴宿禰千室が歌一首
0693 かくのみに恋ひやわたらむ秋津野に棚引く雲の過ぐとはなしに
廣河女王の歌二首
0* 恋草を力車に七車積みて恋ふらく我が心から
0695 恋は今はあらじと吾は思へるをいづくの恋ぞつかみかかれる
石川朝臣廣成が歌一首
0696 家人に恋過ぎめやもかはづ鳴く泉の里に年の経ぬれば
大伴宿禰像見が歌三首
0697 吾が聞きに懸けてな言ひそ刈薦の乱れて思ふ君が直香ぞ
0698 春日野に朝居る雲のしくしくに吾は恋ひ増さる月に日に異に
0699 一瀬には千たび障らひ逝く水の後にも逢はむ今ならずとも
大伴宿禰家持が娘子の門に到りてよめる歌一首
0700 かくしてや猶や罷らむ近からぬ道の間をなづみ参来て
河内百枝娘子が大伴宿禰家持に贈れる歌二首
0701 はつはつに人を相見て如何にあらむいづれの日にかまた外に見む
0702 ぬば玉のその夜の月夜今日までに吾は忘れず間無くし思へば
巫部麻蘇娘子が歌二首
0703 我が背子を相見しその日今日までに我が衣手は乾る時もなし
0704 栲縄の長き命を欲しけくは絶えずて人を見まく欲りこそ
大伴宿禰家持が童女に贈れる歌一首
0705 葉根蘰今せす妹を夢に見て心の内に恋ひ渡るかも
童女が来報ふる歌一首
0706 葉根蘰今せる妹は無きものを*いづれの妹ぞここだ恋ひたる
粟田娘子が大伴宿禰家持に贈れる歌二首
0707 思ひ遣るすべの知らねば片椀の底にぞ吾は恋ひ成りにける
0708 またも逢はむよしもあらぬか白妙の我が衣手に斎ひ留めむ
豊前国の娘子大宅女が歌一首
0709 夕闇は道たづたづし月待ちて行ませ我が背子その間にも見む
安都扉娘子が歌一首
0710 み空行く月の光にただ一目相見し人の夢にし見ゆる
丹波大女娘子が歌三首
0711 鴨鳥の遊ぶこの池に木の葉散りて浮かべる心吾が思はなくに
0712 味酒を三輪の祝が斎ふ杉手触りし罪か君に逢ひ難き
0713 垣穂なす人言聞きて我が背子が心たゆたひ逢はぬこの頃
大伴宿禰家持が娘子に贈れる歌七首
0714 心には思ひ渡れどよしをなみ外のみにして嘆きぞ吾がする
0715 千鳥鳴く佐保の川門の清き瀬を馬うち渡しいつか通はむ
0716 夜昼といふ別知らに吾が恋ふる心はけだし夢に見えきや
0717 つれもなくあるらむ人を片思に吾は思へば惑しくもあるか*
0718 思はぬに妹が笑まひを夢に見て心の内に燃えつつぞ居る
0719 丈夫と思へる吾をかくばかりみつれにみつれ片思をせむ
0720 むら肝の心砕けてかくばかり吾が恋ふらくを知らずかあるらむ
天皇に献れる歌一首
0721 足引の山にし居れば風流無み*我がせるわざを咎め給ふな
大伴宿禰家持が歌一首
0722 かくばかり恋ひつつあらずば石木にも成らましものを物思はずして
大伴坂上郎女が跡見の庄より、宅に留まれる女子の大嬢に贈れる歌一首、また短歌
0723 常世にと 吾が行かなくに 小金門に 物悲しらに 思へりし 我が子の刀自を ぬば玉の 夜昼といはず 思ふにし 我が身は痩せぬ 嘆くにし 袖さへ濡れぬ かくばかり もとなし恋ひば 古里に この月ごろも 有りかてましを
反し歌
0724 朝髪の思ひ乱れてかくばかり汝姉が恋ふれそ夢に見えける
天皇に献れる歌二首
0725 にほ鳥の潜く池水心あらば君に吾が恋ふる心示さね
0726 外に居て恋ひつつあらずば君が家の池に住むとふ鴨にあらましを
大伴宿禰家持が坂上の家の大嬢に贈れる歌二首 離リ絶エタルコト数年、復会ヒテ相聞往来ス。
0727 忘れ草吾が下紐に付けたれど醜の醜草言にしありけり
0728 人も無き国もあらぬか我妹子と携さひ行きて副ひて居らむ
大伴坂上大嬢が大伴宿禰家持に贈れる歌三首
0729 玉ならば手にも巻かむをうつせみの世の人なれば手に巻き難し
0730 逢はむ夜はいつもあらむを何すとかその宵逢ひて言の繁きも
0731 吾が名はも千名の五百名に立ちぬとも君が名立てば惜しみこそ泣け
また大伴宿禰家持が和ふる歌三首
0732 今しはし名の惜しけくも吾はなし妹によりてば千たび立つとも
0733 空蝉の世やも二ゆく何すとか妹に逢はずて吾が独り寝む
0734 吾が思ひかくてあらずば玉にもが真も妹が手に巻かれなむ
同じ坂上大嬢が家持に贈れる歌一首
0735 春日山霞たな引き心ぐく照れる月夜に独りかも寝む
また家持が坂上大嬢に和ふる歌一首
0736 月夜には門に出で立ち夕占問ひ足占をぞせし行かまくを欲り
同じ大嬢が家持に贈れる歌二首
0737 かにかくに人は言ふとも若狭道の後瀬の山の後も逢はむ君
0738 世の中の苦しきものにありけらく恋に堪へずて死ぬべき思へば
また家持が坂上大嬢に和ふる歌二首
0739 後瀬山後も逢はむと思へこそ死ぬべきものを今日までも生けれ
0740 言のみを後も逢はむとねもころに吾を頼めて逢はぬ妹かも*
また大伴宿禰家持が坂上大嬢に贈れる歌十五首
0741 夢の逢ひは苦しかりけり覚きて掻き探れども手にも触れねば
0742 一重のみ妹が結ばむ帯をすら三重結ぶべく吾が身はなりぬ
0743 吾が恋は千引の石を七ばかり首に懸けむも神のまにまに
0744 夕さらば屋戸開け設けて吾待たむ夢に相見に来むといふ人を
0745 朝宵に見む時さへや我妹子が見とも見ぬごとなほ恋しけむ
0746 生ける世に吾はいまだ見ず言絶えてかくおもしろく縫へる袋は
0747 我妹子が形見の衣下に着て直に逢ふまでは吾脱かめやも
0748 恋ひ死なむそこも同じぞ何せむに人目人言辞痛み吾がせむ
0749 夢にだに見えばこそあれかくばかり見えずてあるは恋ひて死ねとか
0750 思ひ絶え侘びにしものを中々に如何で苦しく相見そめけむ
0751 相見ては幾日も経ぬを幾許くも狂ひに狂ひ思ほゆるかも
0752 かくばかり面影にのみ思ほえば如何にかもせむ人目繁くて
0753 相見てば暫しく恋はなぎむかと思へどいよよ恋ひ増さりけり
0754 夜のほどろ吾が出て来れば我妹子が思へりしくし面影に見ゆ
0755 夜のほどろ出でつつ来らく度多くなれば吾が胸断ち焼くごとし
大伴の田村の家の大嬢が妹坂上大嬢に贈れる歌四首
0756 外に居て恋ふれば苦し我妹子を継ぎて相見む事計せよ
0757 遠からば侘びてもあらむ里近くありと聞きつつ見ぬがすべ無さ
0758 白雲の棚引く山の高々に吾が思ふ妹を見むよしもがも
0759 如何にあらむ時にか妹を葎生の穢しき屋戸に入り座せなむ
右、田村大嬢ト坂上大嬢ト、并ニ右大弁大伴宿奈麻呂卿ノ女ナリ。卿田村ノ里ニ居レバ、田村大嬢ト号曰ク。但シ妹坂上大嬢ハ、母坂上ノ里ニ居ル、仍テ坂上大嬢ト曰フ。時ニ姉妹、諮問ヒテ歌ヲ以テ贈答ス。
大伴坂上郎女が竹田の庄より女子の大嬢に贈れる歌二首
0760 打ち渡す竹田の原に鳴く鶴の間なく時なし吾が恋ふらくは
0761 早川の瀬に居る鳥の縁を無み思ひてありし吾が子はも鳴呼
紀女郎が大伴宿禰家持に贈れる歌二首 女郎、名ヲ小鹿ト曰フ
0762 神さぶと否にはあらずはたやはたかくして後に寂しけむかも
0763 玉の緒を沫緒に搓りて結べれば在りて後にも逢はざらめやも
大伴宿禰家持が和ふる歌一首
0764 百年に老舌出でてよよむとも吾は厭はじ恋は増すとも
久迩の京に在りて、寧樂の宅に留まれる坂上大嬢を思ひて、大伴宿禰家持がよめる歌一首
0765 一重山隔れるものを月夜よみ門に出で立ち妹か待つらむ
藤原郎女がこの歌を聞き、即和ふる歌一首
0766 路遠み来じとは知れるものからに然ぞ待つらむ君が目を欲り
大伴宿禰家持がまた大嬢に贈れる歌二首
0767 都路を遠みか妹がこの頃は祈ひて寝れど夢に見え来ぬ
0768 今知らす久迩の都に妹に逢はず久しくなりぬ行きて早見な
大伴宿禰家持が紀女郎に報贈ふる歌一首
0769 久かたの雨の降る日を唯独り山辺に居れば鬱かりけり
大伴宿禰家持が久迩の京より坂上大嬢に贈れる歌五首
0770 人目多み逢はなくのみそ心さへ妹を忘れて吾が思はなくに
0771 偽りも似つきてそする顕しくもまこと我妹子吾に恋ひめや
0772 夢にだに見えむと吾は祈へども*相思はざればうべ見えざらむ
0773 言問はぬ木すらあじさゐ諸茅らが練のむらとにあざむかえけり
0774 百千遍恋ふと言ふとも諸茅らが練の詞し吾は頼まじ
大伴宿禰家持が紀女郎に贈れる歌一首
0775 鶉鳴く古りにし里ゆ思へども何そも妹に逢ふよしも無き
紀女郎が家持に報贈ふる歌一首
0776 言出しは誰が言なるか小山田の苗代水の中淀にして
大伴宿禰家持がまた紀女郎に贈れる歌五首
0777 我妹子が屋戸の籬を見に行かばけだし門より帰しなむかも
0778 うつたへに籬の姿見まく欲り行かむと言へや君を見にこそ
0779 板葺の黒木の屋根は山近し明日の日取りて持ち参り来む
0780 黒木取り草も刈りつつ仕へめど勤しき汝と誉めむともあらじ
0781 ぬば玉の昨夜は帰しつ今宵さへ吾を帰すな路の長手を
紀女郎が裹物を友に贈れる歌一首 女郎、名ヲ小鹿ト曰フ
0782 風高く辺には吹けれど妹がため袖さへ濡れて刈れる玉藻そ
大伴宿禰家持が娘子に贈れる歌三首
0783 一昨年の先つ年より今年まで恋ふれどなそも妹に逢ひ難き
0784 現には更にも得言はじ夢にだに妹が手本を巻き寝とし見ば
0785 我が屋戸の草の上白く置く露の命も惜しからず妹に逢はざれば
大伴宿禰家持が藤原朝臣久須麻呂に報贈れる歌三首
0786 春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなくいと若みかも
0787 夢のごと思ほゆるかも愛しきやし君が使の数多く通へば
0788 うら若み花咲き難き梅を植ゑて人の言しげみ思ひそ吾がする
また家持が藤原朝臣久須麻呂に贈れる歌二首
0789 心ぐく思ほゆるかも春霞たな引く時に言の通へば
0790 春風の音にし出なば在りさりて今ならずとも君がまにまに
藤原朝臣久須麻呂が来報ふる歌二首
0791 奥山の岩蔭に生ふる菅の根のねもごろ我も相思はざれや
0792 春雨を待つとにしあらし我が屋戸の若木の梅もいまだ含めり
太宰帥大伴の卿の凶問に報へたまふ歌一首、また序
禍故重畳り、凶問累りに集まる。永に心を崩す悲しみを懐き、独り腸を断つ泣を流す。但両君の大助に依りて傾命纔に継ぐのみ。筆言を尽さず。古今歎く所なり。
0793 世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
神亀五年六月の二十三日。
盖し聞く、四生の起滅は、夢に方りて皆空なり。三界の漂流は、環の息まざるに喩ふ。所以に維摩大士は方丈に在りて、疾に染む患を懐くこと有り。釋迦能仁は双林に坐し、泥オン*の苦を免るること無しと。故に知る、二聖至極すら、力負の尋ぎて至るを払ふこと能はず。三千世界、誰か能く黒闇の捜り来たるを逃れむ。二鼠競ひ走りて、目を度る鳥旦に飛び、四蛇争ひ侵して、隙を過ぐる駒夕に走る。嗟乎痛きかな。紅顏三従と共に長逝し、素質四徳と与に永滅す。何そ図らむ、偕老要期に違ひ、独飛半路に生ぜむとは。蘭室の屏風徒らに張り、断腸の哀しみ弥よ痛し。枕頭の明鏡空しく懸かり、染ヰン*の涙逾よ落つ。泉門一掩すれば、再見に由無し。嗚呼哀しきかな。 愛河の波浪已く先づ滅び 苦海の煩悩また結ぶこと無し 従来此の穢土を厭離す 本願生を彼の浄刹に託せむ
日本挽歌一首、また短歌
0794 大王の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に
泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず
年月も 幾だもあらねば 心ゆも 思はぬ間に
打ち靡き 臥やしぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに
岩木をも 問ひ
反し歌
0795 家に行きて如何にか吾がせむ枕付く妻屋寂しく思ほゆべしも
0796 愛しきよしかくのみからに慕ひ来し妹が心のすべもすべ無さ
0797 悔しかもかく知らませば青丹よし国内ことごと見せましものを
0798 妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに
0799 大野山霧立ち渡る我が嘆く息嘯の風に霧立ち渡る
神亀五年七月の二十一日、筑前国の守山上憶良上る。
惑へる情を反さしむる歌一首、また序
或る人、父母敬はずして、侍養を忘れ、妻子を顧みざること脱履よりも軽し。自ら異俗先生と称る。意気青雲の上に揚がると雖も、身体は猶塵俗の中に在り。未だ修行得道の聖を験らず。蓋し是山沢に亡命する民なり。所以三綱を指示して、更に五教を開く。遣るに歌を以て、其の惑ひを反さしむ。その歌に曰く、
0800 父母を 見れば貴し 妻子見れば めぐし愛し
遁ろえぬ 兄弟親族 遁ろえぬ 老いみ幼み
朋友の 言問ひ交はす* 世の中は かくぞことわり
もち鳥の かからはしもよ 早川の* ゆくへ知らねば
穿沓を 脱き棄るごとく 踏み脱きて 行くちふ人は
石木より 成りてし人か 汝が名告らさね
天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大王います
この照らす
反し歌
0801 久かたの天道は遠し黙々に家に帰りて業を為まさに
子等を思ふ歌一首、また序
釋迦如来金口正に説きたまへらく、等しく衆生を思ふこと、羅ゴ羅*の如しとのたまへり。又説きたまへらく、愛は子に過ぐること無しとのたまへり。至極の大聖すら、子を愛しむ心有り。況乎世間の蒼生、誰か子を愛まざる。
0802 瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ 眼交に もとなかかりて 安眠し寝さぬ
反し歌
0803 銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも
世間の住り難きを哀しめる歌一首、また序
集め易く排し難し、八大辛苦。遂げ難く尽し易し、百年の賞楽。古人の歎きし所、今また及ぶ。所以因一章の歌を作みて、以て二毛の歎きを撥く。其の歌に曰く、
0804 世間の すべなきものは 年月は 流るるごとし 取り続き 追ひ来るものは 百種に 迫め寄り来たる 娘子らが 娘子さびすと 唐玉を 手本に巻かし 白妙の 袖振り交はし 紅の 赤裳裾引き よち子らと 手携はりて 遊びけむ 時の盛りを 留みかね 過ぐしやりつれ 蜷の腸 か黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ 丹の秀なす 面の上に いづくゆか 皺か来たりし ますらをの 男さびすと 剣太刀 腰に取り佩き さつ弓を 手握り持ちて 赤駒に 倭文鞍うち置き 這ひ乗りて 遊び歩きし 世間や 常にありける 娘子らが 閉鳴す板戸を 押し開き い辿り寄りて 真玉手の 玉手さし交へ さ寝し夜の いくだもあらねば 手束杖 腰に束ねて か行けば 人に厭はえ かく行けば 人に憎まえ 老よし男は かくのみならし 玉きはる 命惜しけど 為むすべもなし
反し歌
0805 常磐なすかくしもがもと思へども世の事なれば留みかねつも
神亀五年七月の二十一日、嘉摩の郡にて撰定ぶ。筑前国守山上憶良。
太宰帥大伴の卿の相聞歌二首* 〔脱文〕* 歌詞両首 太宰帥大伴卿
0806
0807 うつつには逢ふよしも無しぬば玉の夜の夢にを継ぎて見えこそ
大伴淡等謹状。
伏して来書を辱くす。具に芳旨を承る。忽ち漢を隔つる恋を成し、復た梁を抱く意を傷む。唯羨しくは、去留恙無く、遂に雲を披かむことを待つのみ。
答ふる歌二首
0808 龍の馬を吾は求めむ青丹よし奈良の都に来む人の為
0809
姓名謹状。
帥大伴の卿の梧桐の日本琴を中衛大将藤原の卿に贈りたまへる歌二首*
梧桐の日本琴一面 對馬ノ結石山ノ孫枝ナリ 此の琴、夢に娘子に化りて曰けらく、「余根を遥島の崇巒に託せ、幹を九陽の休光に晞す。長く烟霞を帯びて、山川の阿に逍遥す。遠く風波を望みて、雁木の間に出入りす。唯百年の後、空しく溝壑に朽ちなむことを恐れき。偶ま長匠に遭ひて、散りて小琴と為りき。質麁く音少きを顧みず、恒に君子の左琴とならむことを希ふ」といひて、即ち歌ひけらく、
0810 いかにあらむ日の時にかも声知らむ人の膝の上吾が枕かむ
僕その詩詠に報へけらく、
0811 言問はぬ木にはありとも美しき君が手馴れの琴にしあるべし
琴の娘子が答曰へらく、「敬みて徳音を奉はる。幸甚幸甚」といへり。片時にして覚めたり。即ち夢の言に感け、慨然として黙止り得ず。故公使に附けて、聊か進御るのみ。 謹状不具
天平元年十月の七日、使に附けて進上る。
謹みて中衛高明閤下に通る 謹空。
跪きて芳音を承はる。嘉懽交深し。乃ち龍門の恩復た蓬身の上に厚きことを知りぬ。恋望殊念、常心に百倍す。謹みて白雲の什に和へて、野鄙の歌を奏る。房前謹状。
0812 言問はぬ木にもありとも我が背子が手馴れの御琴地に置かめやも
十一月八日、還る使大監に附けて、 謹みて尊門記室に通る。
筑前国怡土郡深江村子負原、海に臨ひたる丘の上に二の石有り。大きなるは長さ一尺二寸六分、囲き一尺八寸六分、重さ十八斤五両。小さきは長さ一尺一寸、囲き一尺八寸、重さ十六斤十両。並皆楕円にして状鶏の子の如し。其の美好きこと、勝へて論ふベからず。所謂径尺璧これなり 或は云く、此の二の石は肥前国彼杵郡平敷の石にして、占に当りて取ると。深江の駅家を去ること二十許里、近く路頭在り。公私の往来、馬より下りて跪拝まざるは莫し。古老相伝へて曰く、往者息長足日女の命、新羅の国を征討たまひし時、茲の両の石を用て御袖の中に挿著みたまひて、以て鎮懐と為したまふと 実はこれ御裳の中なり。所以行人此の石を敬拝すといへり。乃ち歌よみすらく、
0813 かけまくは あやに畏し 足日女 神の命 韓国を 向け平らげて 御心を 鎮めたまふと い取らして 斎ひたまひし 真玉なす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代に 言ひ継ぐがねと 海の底 沖つ深江の 海上の 子負の原に 御手づから 置かしたまひて 神ながら 神さびいます 奇御魂 今の現に 貴きろかも
0814 天地のともに久しく言ひ継げとこの奇御魂敷かしけらしも
右ノ事伝ヘ言フハ、那珂郡伊知郷蓑島ノ人、建部牛麻呂ナリ。
太宰帥大伴の卿の宅に宴してよめる*梅の花の歌三十二首、また序
天平二年正月の十三日、帥の老の宅に萃ひて、宴会を申ぶ。時に初春の令月、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。加以曙は嶺に雲を移し、松は羅を掛けて盖を傾け、夕岫に霧を結び、鳥はうすもの*に封りて林に迷ふ。庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。是に天を盖にし地を坐にして、膝を促して觴を飛ばし、言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開き、淡然として自放に、快然として自ら足れり。若し翰苑にあらずは、何を以てか情をのベむ*。請ひて落梅の篇を紀さむと。古今それ何ぞ異ならむ。園梅を賦し、聊か短詠を成むベし。
0815 正月立ち春の来らばかくしこそ梅を折りつつ楽しき終へめ 大弐紀卿
0816 梅の花今咲けるごと散り過ぎず我が家の園にありこせぬかも 少弐小野大夫
0817 梅の花咲きたる園の青柳は縵にすべく成りにけらずや 少弐粟田大夫
0818 春さればまづ咲く屋戸の梅の花独り見つつや春日暮らさむ 筑前守山上大夫
0819 世の中は恋繁しゑやかくしあらば梅の花にも成らましものを 豊後守大伴大夫
0820 梅の花今盛りなり思ふどち挿頭にしてな今盛りなり 筑後守葛井大夫
0821 青柳梅との花を折り挿頭し飲みての後は散りぬともよし 某官笠氏沙弥*
0822 我が園に梅の花散る久かたの天より雪の流れ来るかも 主人
0823 梅の花散らくはいづくしかすがにこの城の山に雪は降りつつ 大監大伴氏百代*
0824 梅の花散らまく惜しみ我が園の竹の林に鴬鳴くも 少監阿氏奥島
0825 梅の花咲きたる園の青柳を縵にしつつ遊び暮らさな 少監土氏百村
0826 打ち靡く春の柳と我が屋戸の梅の花とをいかにか分かむ 大典史氏大原
0827 春されば木末隠りて鴬ぞ鳴きて去ぬなる梅が下枝に 少典山氏若麻呂
0828 人ごとに折り挿頭しつつ遊べどもいやめづらしき梅の花かも 大判事舟氏麻呂
0829 梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべく成りにてあらずや 薬師張氏福子
0830 万代に年は来経とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし 筑前介佐氏子首
0831 春なればうべも咲きたる梅の花君を思ふと夜寐も寝なくに 壹岐守板氏安麻呂
0832 梅の花折りて挿頭せる諸人は今日の間は楽しくあるべし 神司荒氏稲布
0833 年のはに春の来らばかくしこそ梅を挿頭して楽しく飲まめ 大令史野氏宿奈麻呂
0834 梅の花今盛りなり百鳥の声の恋しき春来たるらし 少令史田氏肥人
0835 春さらば逢はむと思ひし梅の花今日の遊びに相見つるかも 薬師高氏義通
0836 梅の花手折り挿頭して遊べども飽き足らぬ日は今日にしありけり 陰陽師磯氏法麻呂
0837 春の野に鳴くや鴬なつけむと我が家の園に梅が花咲く 算師*志氏大道
0838 梅の花散り乱ひたる岡びには鴬鳴くも春かたまけて 大隅目榎氏鉢麻呂
0839 春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る 筑前目田氏眞人
0840 春柳かづらに折りし梅の花誰か浮かべし酒坏の上に 壹岐目村氏彼方
0841 鴬の音聞くなべに梅の花我ぎ家の園に咲きて知る見ゆ 對馬目高氏老
0842 我が屋戸の梅の下枝に遊びつつ鴬鳴くも散らまく惜しみ 薩摩目高氏海人
0843 梅の花折り挿頭しつつ諸人の遊ぶを見れば都しぞ思ふ 土師氏御通
0844 妹が家に雪かも降ると見るまでにここだも乱ふ梅の花かも 小野氏国堅
0845 鴬の待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子が為 筑前拯門氏石足
0846 霞立つ長き春日を挿頭せれどいやなつかしき梅の花かも 小野氏淡理
員外故郷思ふ歌両首
0847 我が盛りいたく降ちぬ雲に飛ぶ薬食むともまた変若めやも
0848 雲に飛ぶ薬食むよは都見ばいやしき吾が身また変若ぬべし
後に追ひて和める梅の歌四首
0849 残りたる雪に交れる梅の花早くな散りそ雪は消ぬとも
0850 雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛りなり見む人もがも
0851 我が屋戸に盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも
0852 梅の花夢に語らく風流たる花と吾思ふ酒に浮かべこそ
松浦河に遊びて贈り答ふる歌八首、また序
余暫く松浦県に往きて逍遥し、玉島の潭に臨みて遊覧するに、忽ち魚釣る女子等に値へり。花容双び無く、光儀匹ひ無し。柳葉を眉中に開き、桃花を頬上に発く。意気雲を凌ぎ、風流世に絶えたり。僕問ひけらく、「誰が郷誰が家の児等ぞ。若疑神仙ならむか」。娘等皆咲みて答へけらく、「児等は漁夫の舎の児、草菴の微しき者、郷も無く家も無し。なぞも称を云るに足らむ。唯性水に便り、復た心に山を楽しぶ。或は洛浦に臨みて、徒に王魚を羨しみ、乍は巫峡に臥して空しく烟霞を望む。今邂逅に貴客に相遇ひ、感応に勝へず、輙ち款曲を陳ぶ。今より後、豈に偕老ならざるべけむや」。下官対ひて曰く、「唯々、敬みて芳命を奉はりき」。時に日は山西に落ち、驪馬去なむとす。遂に懐抱を申べ、因て詠みて贈れる歌に曰く、
0853 漁りする海人の子どもと人は言へど見るに知らえぬ貴人の子と
答ふる詩に曰く、
0854 玉島のこの川上に家はあれど君を恥しみ顕はさずありき
蓬客等また贈れる歌三首
0855 松浦川川の瀬光り鮎釣ると立たせる妹が裳の裾濡れぬ
0856 松浦なる玉島川に鮎釣ると立たせる子らが家道知らずも
0857 遠つ人松浦の川に若鮎釣る妹が手本を我こそ巻かめ
娘等また報ふる歌三首
0858 若鮎釣る松浦の川の川波の並にし思はば我恋ひめやも
0859 春されば我家の里の川門には鮎子さ走る君待ちがてに
0860 松浦川七瀬の淀は淀むとも我は淀まず君をし待たむ
後れたる人の追ひて和める詩三首 都帥老*
0861 松浦川川の瀬早み紅の裳の裾濡れて鮎か釣るらむ
0862 人皆の見らむ松浦の玉島を見ずてや我は恋ひつつ居らむ
0863 松浦川玉島の浦に若鮎釣る妹らを見らむ人の羨しさ
宜啓す。伏して四月の六日の賜書を奉り、跪きて封函を開き、芳藻を拝読するに、心神の開朗たること、泰初が月を懐きしに似たり。鄙懐の除こること、樂廣が天を披きしが若し。至若、辺域に羇旅し、古旧を懐ひて志を傷ましむ。年矢停まらず、平生を憶ひて涙を落す。但達人は排に安みし、君子は悶り無し。伏して冀くは、朝に雉*を懐くる化を宣べ、暮に亀を放つ術を存ち、張趙を百代に架し、松喬を千齢に追はむのみ。兼ねて垂示を奉はる、梅苑の芳席、群英藻をのべ*、松浦の玉潭、仙媛の贈答、杏壇各言の作に類へ、衡皐税駕の篇に疑ふ。耽読吟諷し、感謝歓怡す。宜主を恋ふ誠、誠に犬馬に逾ゆ。徳を仰ぐ心、心葵カク*に同じ。而るに碧海地を分ち、白雲天を隔て、徒に傾延を積む。何も労緒を慰めむ。孟秋膺節、伏して願はくは万祐日新たむことを。今相撲部領使に因りて、謹みて片紙を付く。宜謹みて啓す。不次。
諸人の梅の花の歌に和へ奉る一首
0864 後れ居て長恋せずは御苑生の梅の花にも成らましものを
松浦仙媛の歌に和ふる一首
0865 君を待つ松浦の浦の娘子らは常世の国の海人娘子かも
君を思ふこと未だ尽きずてまた題せる二首
0866 はろばろに思ほゆるかも白雲の千重に隔てる筑紫の国は
0867 君が行日長くなりぬ奈良道なる山斎の木立も神さびにけり
天平二年七月の十日。
憶良誠惶頓首謹啓す。憶良聞く、方岳の諸侯、都督の刺使、並典法に依りて部下を巡行し、其の風俗を察る。意内端多く、口外出し難し。謹みて三首の鄙歌を以て、五蔵の欝結を写さむとす。其の歌に曰く、
0868 松浦県佐用姫の子が領巾振りし山の名のみや聞きつつ居らむ
0869 足姫神の命の魚釣らすとみ立たしせりし石を誰見き
0870 百日しも行かぬ松浦道今日行きて明日は来なむを何か障れる
天平二年七月の十一日、筑前国司山上憶良謹みて上る。
大伴佐提比古の良子、特朝命を被ふり、藩国に奉使けらる。艤棹して帰き、稍蒼波を赴む。その妾松浦佐用嬪面、此の別れの易きを嗟き、彼の会ひの難きを嘆く。即ち高山の嶺に登りて遥かに離り去く船を望む。悵然として腸を断ち、黯然として魂を銷つ。遂に領巾を脱きて麾る。傍者流涕まざるはなかりき。因此の山を領巾麾の嶺と曰くといへり。乃ち作歌すらく、
0871 遠つ人松浦佐用姫夫恋に領巾振りしより負へる山の名
後の人が追ひて和ふる歌一首
0872 山の名と言ひ継げとかも佐用姫がこの山の上に領巾を振りけむ
最後の人が追ひて和ふる歌一首
0873 万代に語り継げとしこの岳に領巾振りけらし松浦佐用姫
最最後の人が追ひて和ふる歌二首
0874 海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫
0875 ゆく船を振り留みかね如何ばかり恋しくありけむ松浦佐用姫
書殿に餞酒せる日の倭歌四首
0876 天飛ぶや鳥にもがもや都まで送り申して飛び帰るもの
0877 人皆の*うらぶれ居るに立田山御馬近づかば忘らしなむか
0878 言ひつつも後こそ知らめ暫しくも*寂しけめやも君いまさずして
0879 万代にいまし給ひて天の下奏し給はね朝廷去らずて
敢へて私懐を布ぶる歌三首
0880 天ざかる夷に五年住まひつつ都の風俗忘らえにけり
0881 かくのみや息づき居らむあら玉の来経ゆく年の限り知らずて
0882 吾が主の御霊賜ひて春さらば奈良の都に召上げ賜はね
天平二年十二月の六日、筑前国司山上憶良、謹みて上る。
三島王の後に追ひて和へたまへる松浦佐用嬪面の歌一首
0883 音に聞き目にはいまだ見ず佐用姫が領巾振りきとふ君松浦山
0884 国遠き道の長手をおほほしく恋ふや過ぎなむ言問もなく
0885 朝露の消やすき吾が身他国に過ぎかてぬかも親の目を欲り
筑前の国司守山上憶良が、熊凝に為りて其の志を述ぶる歌に敬みて和ふるうた六首、また序
大伴君熊凝は、肥後国益城郡の人なり。年十八歳。天平三年六月の十七日を以て、相撲使某の国の司官位姓名の従人と為り、京都に参向る。天為るかも不幸、路に在りて疾を獲、即ち安藝国佐伯郡高庭の駅家にて、身故りぬ。臨終らむとする時、長歎息きて曰く、「伝へ聞く、仮合の身滅び易く、泡沫の命駐め難し。所以に千聖已く去り、百賢留まらず。况乎凡愚の微しき者、何ぞも能く逃れ避らむ。但我が老親、並菴室に在りて、我を侍つこと日を過ぐし、自ら心を傷む恨み有らむ。我を望むこと時を違へり。必ず明を喪ふ泣を致さむ。哀しき哉我が父、痛き哉我が母。一身死に向かふ途を患へず、唯二親在生の苦を悲しむ。今日長く別れ、何れの世かも観ることを得む」。乃ち歌六首を作みて死りぬ。其の歌に曰く、
0886 打日さす 宮へ上ると たらちしの 母が手離れ 常知らぬ 国の奥処を 百重山 越えて過ぎゆき いつしかも 都を見むと 思ひつつ 語らひ居れど おのが身し 労はしければ 玉ほこの 道の隈廻に 草手折り 柴取り敷きて 床じもの うち臥い伏して 思ひつつ 嘆き伏せらく 国にあらば 父とり見まし 家にあらば 母とり見まし 世間は かくのみならし 犬じもの 道に伏してや 命過ぎなむ
0887 たらちしの母が目見ずておほほしくいづち向きてか吾が別るらむ
0888 常知らぬ道の長手を暗々といかにか行かむ糧は無しに
0889 家にありて母が取り見ば慰むる心はあらまし死なば死ぬとも
0890 出でてゆきし日を数へつつ今日今日と吾を待たすらむ父母らはも
0891 一世には二遍見えぬ父母を置きてや長く吾が別れなむ
貧窮問答の歌一首、また短歌
0892 風雑り 雨降る夜の 雨雑り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ 糟湯酒 うち啜ろひて 咳かひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 髭掻き撫でて 吾をおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾 引き被り 布肩衣 ありのことごと 着襲へども 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ 妻子どもは 乞ひて泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る 天地は 広しといへど 吾が為は 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 吾が為は 照りやたまはぬ 人皆か 吾のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 吾も作るを 綿も無き 布肩衣の 海松のごと 乱け垂れる かかふのみ 肩に打ち掛け 伏廬の 曲廬の内に 直土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へ吟ひ 竈には 火気吹き立てず 甑には 蜘蛛の巣かきて 飯炊く ことも忘れて ぬえ鳥の のどよび居るに いとのきて 短き物を 端切ると 云へるが如く 笞杖執る 里長が声は 寝屋処まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世間の道
0893 世間を憂しと恥しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
0900 富人の家の子どもの着る身なみ腐し捨つらむ絹綿らはも*
0901 荒布の布衣をだに着せかてにかくや嘆かむ為むすべを無み
山上憶良頓首謹みて上る。
好去好来の歌一首、また短歌*
0894 神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 倭の国は 皇神の 厳しき国 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高光る 日の朝廷 神ながら 愛での盛りに 天の下 奏したまひし 家の子と 選びたまひて 大御言 反云、大命 戴き持ちて 唐の 遠き境に 遣はされ 罷りいませ 海原の 辺にも沖にも 神づまり 領きいます 諸々の 大御神たち 船の舳に 反云、フナノヘニ 導きまをし 天地の 大御神たち 倭の 大国御魂 久かたの 天のみ空ゆ 天翔り 見渡したまひ 事終り 帰らむ日には 又更に 大御神たち 船の舳に 御手うち掛けて 墨縄を 延へたるごとく 阿庭可遠志* 値嘉の崎より 大伴の 御津の浜びに 直泊てに 御船は泊てむ 障みなく 幸くいまして 早帰りませ
反し歌
0895 大伴の御津の松原かき掃きて我立ち待たむ早帰りませ
0896 難波津に御船泊てぬと聞こえ来ば紐解き放けて立ち走りせむ
天平五年三月の一日 良宅対面、献ルハ三日ナリ。山上憶良 謹みて上る。 大唐大使の卿の記室。
沈痾自哀文 山上憶良作
竊かに以るに、朝夕山野に佃食する者すら、猶災害無くして世を度ることを得 謂ふは、常に弓箭を執りて六斎を避けず、値ふところの禽獣、大小を論はず、孕めるとまた孕まざると、並皆殺し食らふ。此を以て業と為す者をいへり。昼夜河海に釣漁する者すら、尚慶福有りて俗を経ることを全くす 謂ふは、漁夫潜女各勤むるところ有り。男は手に竹竿を把りて、能く波浪の上に釣り、女は腰に鑿と籠を帯び、潜きて深潭の底に採る者をいへり。况乎我胎生より今日に至るまで、自ら修善の志有り、曽て作悪の心無し 謂ふは、諸悪莫作、諸善奉行の教へを聞くことをいへり。所以に三宝を礼拝し、日として勤まざるは無く 毎日誦経、発露、懺悔せり、百神を敬重し、夜として欠けたること鮮し 謂ふは、天地諸神等を敬拝するをいへり。嗟乎恥しき*かも、我何なる罪を犯してか此の重疾に遭へる 謂ふは、未だ過去に造りし罪か、若しは是現前に犯せる過なるかを知らず、罪過を犯すこと無くは、何ぞ此の病を獲むやといへり。初めて痾ひに沈みしより已来、年月稍多し 謂ふは、十余年を経たるをいへり。是の時年七十有四、鬢髪斑白にして、筋力汪羸。但に年老いるのみにあらず、復た斯の病を加へたり。諺に曰く、「痛き瘡は塩を灌ぎ、短き材は端を截る」といふは、此の謂なり。四支動かず、百節皆疼み、身体太だ重きこと、猶鈞石を負へるがごとし 二十四銖を一両と為し、十六両を一斤を為し、卅斤を一鈞と為し、四鈞を一石と為す、合せて一百廿斤なり。布を懸けて立たむとすれば、翼折れたる鳥の如く、杖に倚りて歩まむとすれば、跛足の驢に比ふ。吾、身已く俗を穿ち、心も亦塵に累がるるを以て、禍の伏す所、祟の隠るる所を知らむと欲ひ、亀卜の門、巫祝の室に、徃きて問はずといふこと無し。若しは実なれ、若しは妄なれ、其の教ふる所に隋ひ、幣帛を奉り、祈祷せずといふこと無し。然れども弥よ苦を増す有り、曽て減差ゆること無し。吾聞く、前代に多く良医有りて、蒼生の病患を救療す。楡柎、扁鵲、華他、秦の和、緩、葛稚川、陶隠居、張仲景等のごときに至りては、皆是世に在りし良医にして、除愈せずといふこと無しと 扁鵲、姓は秦、字は越人、勃海郡の人なり。胸を割きて心腸を採りて之を置き、投るるに神薬を以てすれば、即ち寤めて平の如し。華他、字は元化、沛国のセフ*の人なり。若し病結積れ沈重れる者有らば、内に在る者は腸を刳きて病を取る。縫ひ復して膏を摩れば、四五日にして差ゆ。件の医を追ひ望むとも、敢へて及ぶ所にあらじ。若し聖医神薬に逢はば、仰ぎ願はくは五蔵を割刳きて百病を抄採り、尋ねて膏盲の奥処*に達り 盲は鬲なり。心の下を膏とす。之を改むること可からず。之に達れども及ばず、薬至らず、二竪の逃れ匿りたるを顕さむと欲 謂ふは、晉の景公疾み、秦の医緩視て還りしは、鬼の為に殺さると謂ふべしといへり。命根既く尽き、其の天年を終りてすら、なほ哀しと為す 聖人賢者一切含霊、誰か此の道を免れむ。何ぞ况んや、生録未だ半ばならずして、鬼に枉殺せられ、顏色壮年にして、病に横困せらる者をや。世に在るの大患、孰れか此より甚だしからむ 志恠記に云く、「廣平の前の大守、北海の徐玄方の女、年十八歳にして死ぬ。其の霊、馮馬子に謂ひて曰く、『我が生録を案ふるに、寿八十余歳なるべし。今妖鬼の為に枉殺されて、已に四年を経たり』と。此に馮馬子に遇ひて、乃ち更活ることを得たり」といふは是なり。内教に云く、「瞻浮州の人は寿百二十歳なり」と。謹みて此の数を案ふるに、必も此を過ぐること得ずといふに非ず。故に寿延経に云はく、「比丘有り、名を難逹と曰ふ。命終の時に臨み、仏に詣でて寿を請ひ、則ち十八年を延べたり」といふ。但善を為す者のみ、天地と相畢はる。其の寿夭は、業報の招く所にして、其の脩短に隋ひて半ばと為る。未だ斯の算に盈たずしてすみやかに死去す。故に未だ半ばならずと曰ふ。任徴君曰く、「病は口より入る。故に君子は其の飲食を節む」と。斯に由りて言はば、人の疾病に遇ふは必も妖鬼にあらず。それ医方諸家の広説、飲食禁忌の厚訓、知ること易く行ふこと難き鈍情の、三つは目に盈ち耳に満つこと由来久し。抱朴子に曰く、「人は但其の当に死なむ日を知らず、故に憂へざるのみ。若し誠に、羽カク*期を延ぶること得べき者を知らば、必ず之を為さむ」と。此を以て観れば、乃ち知りぬ、我が病は盖しこれ飲食の招く所にして、自ら治むること能はぬものか。帛公略説に曰く、「伏して思ひ自ら励むに、斯の長生を以てす。生は貪るべし、死は畏るべし」と。天地の大徳を生と曰ふ。故に死人は生鼠に及かず。王侯為りと雖も、一日気を絶たば、金を積むこと山の如くありとも、誰か富と為む。威勢海の如くありとも、誰か貴しと為む。遊仙窟に曰く、「九泉下の人、一銭にだに直せず」と。孔子の曰く、「天に受けて、変易すべからぬものは形なり、命に受けて請益すべからぬものは寿なり」と 鬼谷先生の相人書に見ゆ。故に生の極りて貴く、命の至りて重きことを知る。言はむと欲へば言窮まる。何を以てか言はむ。慮らむと欲へば慮り絶ゆ、何に由りてか慮らむ。惟以みれば、人賢愚と無く、世古今と無く、咸く悉嗟歎く。歳月競ひ流れ、昼夜息はず 曾子曰く、「往きて反らぬものは年なり」と。宣尼の川に臨む歎きも亦是なり。老疾相催し、朝夕侵し動ぐ。一代の歓楽、未だ席前に尽きずして 魏文の時賢を惜しむ詩に曰く、「未だ西花の夜を尽さず、劇に北芒*の塵となる」と。千年の愁苦、更に坐後を継ぐ 古詩に云く、「人生百に満たず、何ぞ千年の憂を懐かむ」。若夫群生品類、皆尽くること有る身を以て、並に窮り無き命を求めずといふこと莫し。所以に道人方士の自ら丹経を負ひ、名山に入りて合薬する者は、性を養ひ神を怡び、以て長生を求む。抱朴子に曰く、「神農云く、『百病愈えずは、安ぞ長生を得む』」と。帛公又曰く、「生は好き物なり。死は悪しき物なり」と。若し不幸にして長生を得ずは、猶生涯病患無き者を以て福大と為さむか。今吾病を為し悩を見、臥坐を得ず。東に向かひ西に向かひ、為す所知ること莫し。福無きこと至りて甚しき、すべて我に集まる。人願へば天従ふ。如し実有らば、仰ぎ願はくは、頓に此の病を除き、頼に平の如くあるを得む。鼠を以て喩とす、豈に愧ぢざらむや 已に上に見ゆ。
俗道仮合即離、去り易く留まり難きを悲歎する詩一首、また序
竊に以るに、釋慈の示教 釋氏慈氏を謂へり、先に三帰 仏法僧に帰依するを謂へり、五戒 謂ふは、一に不殺生、二に不偸盗、三に不邪婬、四に不妄語、五に不飲酒をいへりを開きて遍く法界を化け、周孔の垂訓は、前に三綱 謂ふは、君臣・父子・夫婦をいへり、五教謂ふは、父義・母慈・兄友・弟順・子孝をいへりを張りて、斉しく邦国を済ふ。故に知る、引導は二ありと雖も、悟を得たるは惟一なりと。但以れば世に恒質無し、所以に陵谷更に変る。人に定期無し、所以に寿夭同じからず。撃目の間、百齢已に尽き、申臂の頃、千代亦空し。旦には席上の主となり、夕には泉下の客となる。白馬走り来るとも、黄泉は何にか及ばむ。隴上の青松、空しく信釼を懸け、野中の白楊、但悲風に吹かる。是に知る、世俗本より隠遁の室無く、原野唯長夜の台のみ有り。先聖已に去り、後賢留まらず。如し贖ひて免るべきこと有らば、古人誰か価金無からむ。未だ独り存へて遂に世の終を見る者を聞かず、所以に維摩大士は玉体を方丈に疾み、釋迦能仁は金容を双樹に掩へり。内教に曰く、「黒闇の後に来らむを欲せずは、徳天の先に至るに入ること莫かれ」と 徳天は生なり。黒闇は死なり。故に知る、生必ず死有り、死若し欲はざらむは、生まれぬには如かず。况乎縦ひ始終の恒数を覚るとも、何にぞ存亡の大期を慮らむ。 俗道の変化は撃目の如く 人事の経紀は申臂の如し 空しく浮雲と大虚を行き 心力共に尽きて寄る所無し
老身重病年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌五首 長一首、短四首
0897 玉きはる 現の限りは* 平らけく 安くもあらむを 事もなく 喪なくもあらむを 世間の 憂けく辛けく いとのきて 痛き瘡には 辛塩を 灌ぐちふごとく ますますも 重き馬荷に 表荷打つと いふことのごと 老いにてある 吾が身の上に 病をら 加へてしあれば 昼はも 嘆かひ暮らし 夜はも 息づき明かし 年長く 病みしわたれば 月重ね 憂へさまよひ ことことは 死ななと思へど 五月蝿なす 騒く子どもを 棄てては 死には知らず 見つつあれば 心は燃えぬ かにかくに 思ひ煩ひ 音のみし泣かゆ
反し歌
0898 慰むる心は無しに雲隠れ鳴きゆく鳥の音のみし泣かゆ
0899 すべもなく苦しくあれば出で走り去ななと思へど子等に障りぬ
0902 水沫なす脆き命も栲縄の千尋にもがと願ひ暮らしつ
0903 しづたまき数にもあらぬ身にはあれど千年にもがと思ほゆるかも 去ル神亀二年ニ作メリ。但類ヲ以テノ故ニ更ニ茲ニ載ス
天平五年六月の丙申の朔三日戊戌作めり。
男子名は古日を恋ふる歌三首 長一首、短二首
0904 世の人の 貴み願ふ 七種の 宝も吾は 何せむに 願ひ欲せむ* 我が中の 生れ出でたる 白玉の 我が子古日は 明星の 明くる朝は 敷細の 床の辺去らず 立てれども 居れども共に 掻き撫でて 言問ひ*戯れ 夕星の 夕べになれば いざ寝よと 手を携はり 父母も うへはな離り 三枝の 中にを寝むと 愛しく しが語らへば いつしかも 人と成り出でて 悪しけくも 吉けくも見むと 大船の 思ひ頼むに 思はぬに 横様風の にはかにも* 覆ひ来たれば 為むすべの たどきを知らに 白妙の たすきを掛け 真澄鏡 手に取り持ちて 天つ神 仰ぎ祈ひ祷み 国つ神 伏して額づき かからずも かかりもよしゑ 天地の 神のまにまと* 立ちあざり 我が祈ひ祷めど しましくも 吉けくはなしに 漸々に かたちつくほり 朝な朝な 言ふことやみ 玉きはる 命絶えぬれ 立ち躍り 足すり叫び 伏し仰ぎ 胸打ち嘆き 手に持たる 吾が子飛ばしつ 世間の道
反し歌
0905 若ければ道行き知らじ賄はせむ下方の使負ひて通らせ
0906 布施置きて吾は祈ひ祷む欺かず直に率行きて天道知らしめ*
養老七年癸亥夏五月、芳野の離宮に幸せる時、笠朝臣金村がよめる歌一首、また短歌
0907 滝の上の 三船の山に 水枝さし 繁に生ひたる 樛の木の いや継ぎ継ぎに 万代に かくし知らさむ み吉野の 秋津の宮は 神柄か 貴かるらむ 国柄か 見が欲しからむ 山川を 淳み清けみ* 大宮と* 諾し神代ゆ 定めけらしも
反し歌二首
0908 毎年にかくも見てしかみ吉野の清き河内の激つ白波
0909 山高み白木綿花に落ち激つ滝の河内は見れど飽かぬかも
或ル本ノ反シ歌ニ曰ク、
0910 神柄か見が欲しからむみ吉野の滝の河内は見れど飽かぬかも
0911 み吉野の秋津の川の万代に絶ゆることなくまた還り見む
0912 泊瀬女の造る木綿花み吉野の滝の水沫に咲きにけらずや
車持朝臣千年がよめる歌一首、また短歌
0913 味凝 あやに羨しき 鳴神の 音のみ聞きし み吉野の 真木立つ山ゆ 見降せば 川の瀬ごとに 明け来れば 朝霧立ち 夕されば かはづ鳴くなり* 紐解かぬ 旅にしあれば 吾のみして 清き川原を 見らくし惜しも
反し歌一首
0914 滝の上の三船の山は見つれども*思ひ忘るる時も日も無し
或ル本ノ反シ歌ニ曰ク、
0915 千鳥泣くみ吉野川の川音なす止む時なしに思ほゆる君
0916 茜さす日並べなくに吾が恋は吉野の川の霧に立ちつつ
右、年月審カナラズ。但歌類ヲ以テ此ノ次ニ載ス。或ル本ニ云ク、養老七年五月、芳野離宮ニ幸セル時ニ作ム。
神亀元年甲子冬十月五日、紀伊国に幸せる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
0917 やすみしし 我ご大王の 外津宮と 仕へ奉れる 雑賀野ゆ 背向に見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒き 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴き 玉津島山
反し歌二首
0918 沖つ島荒磯の玉藻潮干満ちてい隠ろひなば思ほえむかも
0919 若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴鳴き渡る
右、年月記サズ。但称ハク玉津島ニ従駕セリキト。因リテ今行幸ノ年月ヲ検注シ、以テ載ス。
二年乙丑夏五月、芳野の離宮に幸せる時、笠朝臣金村がよめる歌一首、また短歌
0920 あしひきの み山も清に 落ち激つ 吉野の川の 川の瀬の 浄きを見れば 上辺には 千鳥しば鳴き 下辺には かはづ妻呼ぶ 百敷の 大宮人も をちこちに 繁にしあれば 見るごとに あやにともしみ 玉葛 絶ゆることなく 万代に かくしもがもと 天地の 神をぞ祈る 畏かれども
反し歌二首
0921 万代に見とも飽かめやみ吉野の滝つ河内の大宮所
0922 人皆の*命も吾もみ吉野の滝の常磐の常ならぬかも
山部宿禰赤人がよめる歌二首、また短歌
0923 やすみしし 我ご大王の 高知らす 吉野の宮は たたなづく 青垣隠り 川並の 清き河内そ 春へは 花咲き撓り 秋されば 霧立ち渡る その山の いや益々に この川の 絶ゆること無く 百敷の 大宮人は 常に通はむ
反し歌二首
0924 み吉野の象山の際の木末にはここだも騒く鳥の声かも
0925 ぬば玉の夜の更けぬれば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く
0926 やすみしし 我ご大王は み吉野の 秋津の小野の 野の上には 跡見据ゑ置きて み山には 射目立て渡し 朝狩に 獣踏み起し 夕狩に 鳥踏み立て 馬並めて 御狩そ立たす 春の茂野に
反し歌一首
0927 あしひきの山にも野にも御狩人さつ矢手挟み騒ぎたり見ゆ
右、先後ヲ審ラカニセズ。但便ヲ以テノ故ニ此次ニ載ス。
冬十月、難波の宮に幸せる時、笠朝臣金村がよめる歌一首、また短歌
0928 押し照る 難波の国は 葦垣の 古りにし里と 人皆の 思ひ安みて 連れもなく ありし間に 続麻なす 長柄の宮に 真木柱 太高敷きて 食す国を 治めたまへば 沖つ鳥 味經の原に 物部の 八十伴雄は 廬りして 都と成れり 旅にはあれども
反し歌二首
0929 荒野らに里はあれども大王の敷き坐す時は都と成りぬ
0930 海未通女棚無小舟榜ぎ出らし旅の宿りに楫の音聞こゆ
車持朝臣千年がよめる歌一首、また短歌
0931 鯨魚取り 浜辺を清み 打ち靡き 生ふる玉藻に 朝凪に 千重波寄り 夕凪に 五百重波寄る 沖つ波 いや益々に* 辺つ波の いやしくしくに 月に日に 日々に見がほし* 今のみに 飽き足らめやも 白波の い咲き廻へる 住吉の浜
反し歌一首
0932 白波の千重に来寄する住吉の岸の黄土生ににほひて行かな
山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
0933 天地の 遠きが如く 日月の 長きが如く 押し照る 難波の宮に 我ご大王 国知らすらし 御食つ国 日々の御調と* 淡路の 野島の海人の 海の底 沖つ海石に 鮑玉 多に潜き出 船並めて 仕へ奉るか 貴し見れば
反し歌一首
0934 朝凪に楫の音聞こゆ御食つ国野島の海人の船にしあるらし
三年丙寅秋九月十五日、播磨国印南野に幸せる時、笠朝臣金村がよめる歌一首、また短歌
0935 名寸隅の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海未通女 ありとは聞けど 見に行かむ 由のなければ 大夫の 心は無しに 手弱女の 思ひたわみて 徘徊り 吾はそ恋ふる 船楫を無み
反し歌二首
0936 玉藻刈る海未通女ども見に行かむ船楫もがも波高くとも
0937 往き還り見とも飽かめや名寸隅の船瀬の浜に頻る白波
山部宿禰赤人がよめる歌一首 、また短歌
0938 やすみしし 我が大王の 神ながら 高知らせる 印南野の 大海の原の 荒栲の 藤江の浦に* 鮪釣ると 海人船騒ぎ 塩焼くと 人そ多なる 浦を吉み 諾も釣はす 浜を吉み 諾も塩焼く あり通ひ 見さくも著し 清き白浜
反し歌三首
0939 沖つ波辺波静けみ漁りすと藤江の浦に船そ騒げる
0940 印南野の浅茅押しなべさ寝る夜の日長くしあれば家し偲はゆ
0941 明石潟潮干の道を明日よりは下笑ましけむ家近づけば
辛荷の島を過ぐる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
0942 あぢさはふ 妹が目離れて 敷細の 枕も巻かず 桜皮巻き 作れる舟に 真楫貫き 吾が榜ぎ来れば 淡路の 野島も過ぎ 印南嬬 辛荷の島の 島の際ゆ 我家を見れば 青山の そことも見えず 白雲も 千重になり来ぬ 榜ぎ廻る 浦のことごと 行き隠る 島の崎々 隈も置かず 思ひそ吾が来る 旅の日長み
反し歌三首
0943 玉藻刈る辛荷の島に島回する鵜にしもあれや家思はざらむ
0944 島隠り吾が榜ぎ来れば羨しかも大和へ上る真熊野の船
0945 風吹けば波か立たむと伺候に都太の細江に浦隠り居り
敏馬の浦を過ぐる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
0946 御食向ふ 淡路の島に 直向ふ 敏馬の浦の 沖辺には 深海松摘み 浦廻には 名告藻苅り 深海松の 見まく欲しけど 名告藻の 己が名惜しみ 間使も 遣らずて吾は 生けるともなし
反し歌一首
0947 須磨の海人の塩焼き衣の慣れなばか一日も君を忘れて思はむ
右ノ作歌、年月詳ラカナラズ。但類ヲ以テノ故ニ此ノ次ニ載ス。
四年丁卯春正月、諸王諸臣子等に勅して、授刀寮に散禁めたまへる時によめる歌一首、また短歌
0948 真葛延ふ 春日の山は 打ち靡く 春さりゆくと 山の辺に 霞たな引き 高圓に 鴬鳴きぬ 物部の 八十伴男は 雁が音の 来継ぎこの頃 かく継ぎて 常にありせば 友並めて 遊ばむものを 馬並めて 行かまし里を 待ちがてに 吾がせし春を かけまくも あやに畏し 言はまくも 忌々しからむと あらかじめ かねて知りせば 千鳥鳴く その佐保川に 石に生ふる 菅の根採りて 偲ふ草 祓ひてましを 行く水に 禊ぎてましを 大王の 命畏み 百敷の 大宮人の 玉ほこの 道にも出でず 恋ふるこの頃
反し歌一首
0949 梅柳過ぐらく惜しみ佐保の内に遊びし事を宮もとどろに
右、神亀四年正月、数王子マタ諸臣子等、春日野ニ集ヒ、打毬ノ楽ヲ作ス。其ノ日、忽チニ天陰リ、雨フリ雷ナリ電ス。此ノ時宮中ニ侍従マタ侍衛無シ。勅シテ刑罰ニ行ヒ、皆授刀寮ニ散禁シテ、妄リニ道路ニ出ヅルコトヲ得ザラシメタマフ。時ニ悒憤シテ、即チ斯ノ歌ヲ作ム。作者ハ詳ラカナラズ。
五年戊辰、難波の宮に幸せる時よめる歌四首
0950 大王の境ひたまふと山守据ゑ守るちふ山に入らずはやまじ
0951 見渡せば近きものから石隠り燿ふ玉を取らずはやまじ
0952 韓衣着奈良の里の君*松に玉をし付けむ好き人もがも
0953 さ牡鹿の鳴くなる山を越え行かむ日だにや君にはた逢はざらむ
右、笠朝臣金村ガ歌ノ中ニ出ヅ。或ハ云ク、車持朝臣千年作ムト。
膳王の歌一首
0954 朝には海辺に漁りし夕されば大和へ越ゆる雁し羨しも
右ノ作歌ノ年ハ審ラカナラズ。但歌類ヲ以テ便チ此ノ次ニ載ス。
太宰少弐石川朝臣足人が歌一首
0955 刺竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君
帥大伴卿が和ふる歌一首
0956 やすみしし我が大王の食す国は大和もここも同じとそ思ふ
冬十一月、太宰の官人等、香椎の廟を拝み奉り、訖へて退帰れる時、馬を香椎の浦に駐めて、各懐を述べてよめる歌
帥大伴の卿の歌一首
0957 いざ子ども香椎の潟に白妙の袖さへ濡れて朝菜摘みてむ
大弐小野老朝臣が歌一首
0958 時つ風吹くべくなりぬ香椎潟潮干の浦に玉藻刈りてな
豊前守宇努首男人が歌一首
0959 往き還り常に吾が見し香椎潟明日ゆ後には見む縁もなし
帥大伴の卿の芳野の離宮を遥思ひてよみたまへる歌一首
0960 隼人の瀬戸の巌も鮎走る吉野の滝になほしかずけり
帥大伴の卿の、次田の温泉に宿りて、鶴が喧を聞きてよみたまへる歌一首
0961 湯の原に鳴く葦鶴は吾が如く妹に恋ふれや時わかず鳴く
天平二年庚午、勅して駿馬を擢ぶ使大伴道足宿禰を遣はせる時の歌一首
0962 奥山の岩に苔むし畏くも問ひ賜ふかも思ひあへなくに
右、勅使大伴道足宿禰を帥の家に饗す。此の日衆諸を会集へ、駅使葛井連廣成を相誘ひ、歌詞を作むべしと言ふ。登時廣成声に応へて、此の歌を吟へりき。
冬十一月、大伴坂上郎女が帥の家より上道して、筑前国宗形郡名兒山を超ゆる時よめる歌一首
0963 大汝 少彦名の 神こそは 名付けそめけめ 名のみを 名兒山と負ひて 吾が恋の 千重の一重も 慰めなくに
同じ坂上郎女が京に向る海路にて浜の貝を見てよめる歌一首
0964 我が背子に恋ふれば苦し暇あらば拾ひて行かむ恋忘れ貝
冬十二月、太宰帥大伴の卿の京に上りたまふ時、娘子がよめる歌二首
0965 凡ならばかもかもせむを畏みと振りたき袖を忍ひてあるかも
0966 大和道は雲隠れたりしかれども吾が振る袖を無礼しと思ふな
右、太宰帥大伴の卿の大納言に兼任され、京に向らむとして上道したまふ。此の日水城に馬駐め、府家を顧み望む。時に卿を送る府吏の中に遊行女婦あり。其の字を兒島と曰ふ。是に娘子、此の別れ易きを傷み、彼の会ひ難きを嘆き、涕を拭ひて自ら袖を振る歌を吟ふ。
大納言大伴の卿の和へたまへる歌二首
0967 大和道の吉備の兒島を過ぎて行かば筑紫の子島思ほえむかも
0968 大夫と思へる吾や水茎の水城の上に涙拭はむ
三年辛未、大納言大伴の卿の、寧樂の家に在りて故郷を思ひてよみたまへる歌二首
0969 暫しくも行きて見てしか神名備の淵は浅にて瀬にか成るらむ
0970 群玉の*栗栖の小野の萩が花散らむ時にし行きて手向けむ
四年壬申、藤原宇合の卿の西海道の節度使に遣はさるる時、高橋連蟲麻呂がよめる歌一首、また短歌
0971 白雲の 龍田の山の 露霜に 色づく時に 打ち越えて 旅行く君は 五百重山 い行きさくみ 賊守る 筑紫に至り 山の極 野の極見せと 伴の部を 班ち遣はし 山彦の 答へむ極み 蟾蜍の さ渡る極み 国形を 見したまひて 冬籠り 春さりゆかば 飛ぶ鳥の 早還り来ね* 龍田道の 岡辺の道に 紅躑躅の にほはむ時の 桜花 咲きなむ時に 山釿の 迎へ参ゐ出む 君が来まさば
反し歌一首
0972 千万の軍なりとも言挙げせず討りて来ぬべき男とぞ思ふ
天皇の節度使の卿等に酒賜へる御歌一首、また短歌
0973 食す国の 遠の朝廷に 汝らし かく罷りなば 平けく 吾は遊ばむ 手抱きて 吾はいまさむ 天皇朕が 珍の御手もち 掻き撫でそ 労ぎたまふ 打ち撫でそ 労ぎたまふ 還り来む日 相飲まむ酒そ この豊御酒は
反し歌一首
0974 大夫の行くちふ道そおほろかに思ひて行くな大夫の伴
右ノ御歌ハ、或ハ云ク、太上天皇ノ御製ナリト。
中納言安倍廣庭の卿の歌一首
0975 かくしつつ在らくを好みぞ玉きはる短き命を長く欲りする
五年癸酉、草香山を超ゆる時、神社忌寸老麿がよめる歌二首
0976 難波潟潮干の名残よく見てむ家なる妹が待ち問はむため
0977 直越のこの道にして押し照るや難波の海と名付けけらしも
山上臣憶良が沈痾る時の歌一首
0978 士やも空しかるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして
右ノ一首ハ、山上憶良臣ガ沈痾ル時、藤原朝臣八束、河邊朝臣東人ヲシテ、疾メル状ヲ問ハシム。是ニ憶良臣、報フル語已ニ畢リ、須ク有リテ涕ヲ拭ヒ、悲シミ嘆キテ此ノ歌ヲ口吟ヒキ。
大伴坂上郎女が、姪家持が佐保より西の宅に還帰るときに与れる歌一首
0979 我が背子が着る衣薄し佐保風はいたくな吹きそ家に至るまで
安倍朝臣蟲麻呂が月の歌一首
0980 雨隠り三笠の山を高みかも月の出で来ぬ夜は降ちつつ
大伴坂上郎女が月の歌三首
0981 獵高の高圓山を高みかも出で来む月の遅く照るらむ
0982 ぬば玉の夜霧の立ちておほほしく照れる月夜の見れば悲しさ
0983 山の端の細愛壮士天の原門渡る光見らくしよしも
豊前国の娘子が月の歌一首 娘子字ヲ大宅ト曰フ。姓氏詳ラカナラズ。
0984 雲隠り行方を無みと吾が恋ふる月をや君が見まく欲りする
湯原王の月の歌二首
0985 天にます月読壮士幣はせむ今宵の長さ五百夜継ぎこそ
0986 愛しきやし間近き里の君来むと言ふ徴にかも*月の照りたる
藤原八束朝臣が月の歌一首
0987 待ちがてに吾がする月は妹が着る三笠の山に隠りたりけり
0988 春草は後は散り易し巌なす常盤にいませ貴き吾君
湯原王の打酒*の歌一首
0989 焼太刀のかど打ち放ち大夫の寿く豊御酒に吾酔ひにけり
紀朝臣鹿人が跡見の茂岡の松の樹の歌一首
0990 茂岡に神さび立ちて栄えたる千代松の樹の歳の知らなく 同じ鹿人が泊瀬河の辺に至りてよめる歌一首
0991 石走り激ち流るる泊瀬川絶ゆること無くまたも来て見む
大伴坂上郎女が元興寺の里を詠める歌一首
0992 古郷の飛鳥はあれど青丹よし奈良の明日香を見らくしよしも
同じ坂上郎女が初月の歌一首
0993 月立ちてただ三日月の眉根掻き日長く恋ひし君に逢へるかも
大伴宿禰家持が初月の歌一首
0994 振り放けて三日月見れば一目見し人の眉引思ほゆるかも
大伴坂上郎女が親族と宴せる歌一首
0995 かくしつつ遊び飲みこそ草木すら春は咲きつつ秋は散りぬる
六年甲戌、海犬養宿禰岡麿が詔を応りてよめる歌一首
0996 御民吾生ける験あり天地の栄ゆる時に遭へらく思へば
春三月、難波の宮に幸せる時の歌六首
0997 住吉の粉浜の蜆開けも見ず隠りのみやも恋ひ渡りなむ
右の一首は、作者未詳。
0998 眉のごと雲居に見ゆる阿波の山懸けて榜ぐ舟泊知らずも
右の一首は、船王のよみたまへる。
0999 茅渟廻より雨そ降り来る四極の海人綱手干したり濡れあへむかも
右の一首は、住吉の浜に遊覧びて、宮に還りたまへる時の道にて、守部王の詔を応りてよみたまへる歌。
1000 児らがあらば二人聞かむを沖つ洲に鳴くなる鶴の暁の声
右の一首は、守部王のよみたまへる。
1001 大夫は御狩に立たし娘子らは赤裳裾引く清き浜びを
右の一首は、山部宿禰赤人がよめる。
1002 馬の歩み抑へ留めよ住吉の岸の黄土ににほひて行かむ
右の一首は、安倍朝臣豊継がよめる。
筑後守外従五位下葛井連大成が海人の釣船を遥見けてよめる歌一首
1003 海女をとめ玉求むらし沖つ波恐き海に船出せり見ゆ
按作村主益人が歌一首
1004 思ほえず来ませる君を佐保川のかはづ聞かせず帰しつるかも
右、内匠大属按作村主益人、聊カ飲饌ヲ設ケ、以テ長官佐為王ヲ饗ス。未ダ日斜ツニ及バズシテ王既ク還帰ル。時ニ益人、厭カズシテ帰ルコトヲ怜惜ミテ、仍チ此ノ歌ヲ作ム。
八年丙子夏六月、芳野の離宮に幸せる時、山部宿禰赤人が詔を応りてよめる歌一首、また短歌
1005 やすみしし 我が大王の 見したまふ 吉野の宮は 山高み 雲そ棚引く 川速み 瀬の音そ清き 神さびて 見れば貴く よろしなへ 見れば清けし この山の 尽きばのみこそ この川の 絶えばのみこそ 百敷の 大宮所 止む時もあらめ
反し歌一首
1006 神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは山川を吉み
市原王の独り子を悲しみたまへる歌一首
1007 言問はぬ木すら妹と兄ありちふをただ独り子にあるが苦しさ
忌部首黒麿が友の来ること遅きを恨むる歌一首
1008 山の端にいさよふ月の出でむかと吾が待つ君が夜は降ちつつ
冬十一月、左大弁葛城王等に、橘の氏を賜姓へる時、みよみませる御製歌一首
1009 橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木
右、冬十一月九日、従三位葛城王、従四位上佐為王等、皇族ノ高名ヲ辞シ、外家ノ橘姓ヲ賜フコト已ニ訖リヌ。時ニ太上天皇、皇后、共ニ皇后宮ニ在シテ、肆宴ヲ為シ、即チ橘ヲ賀ク歌ヲ御製シ、マタ御酒ヲ宿禰等ニ賜フ。或ハ云ク、此ノ歌一首、太上天皇ノ御歌ナリ。但シ天皇皇后ノ御歌ハ各一首有リ。其ノ歌遺落シテ探リ求ムルコトヲ得ズ。今案内ヲ検フルニ、八年十一月九日、葛城王等橘宿禰ノ姓ヲ願ヒ表ヲ上ル。十七日ヲ以テ表ニ依リ乞ヒ橘宿禰ヲ賜フト。
橘宿禰奈良麿が詔を応りてよめる歌一首
1010 奥山の真木の葉しのぎ降る雪の降りは増すとも地に落ちめやも
冬十二月の十二日、歌舞所*の諸王臣子等、葛井連廣成が家に集ひて宴せる歌二首
比来古舞*盛ニ興リテ、古歳漸ク晩レヌ。理、共ニ古情ヲ尽シテ、同ニ此ノ歌ヲ唄フベシ。故ニ此ノ趣ニ擬ヘテ、輙チ古曲二節ヲ献ル。風流意気ノ士、儻シ此ノ集ノ中ニ在ラバ、発念ヲ争ヒ、心々ニ古体ニ和ヘヨ。
1011 我が屋戸の梅咲きたりと告げ遣らば来ちふに似たり散りぬともよし
1012 春されば撓りに撓り鴬の鳴く吾が山斎そ止まず通はせ
九年丁丑春正月、橘少卿、また諸大夫等の、弾正尹門部王の家に集ひて宴せる歌二首
1013 あらかじめ君来まさむと知らませば門に屋戸にも玉敷かましを
右の一首は、主人門部王 後、大原真人氏ヲ賜姓フ。
1014 一昨日も昨日も今日も見つれども明日さへ見まく欲しき君かも
右の一首は、橘宿禰文成 少卿ノ子ナリ。
榎井王の後に追ひて和へたまへる歌一首
1015 玉敷きて待たえしよりは*たけそかに来たる今宵し楽しく思ほゆ
春二月、諸大夫等、左少弁巨勢宿奈麻呂朝臣の家に集ひて宴せる歌一首
1016 海原の遠き渡りを遊士の遊ぶを見むとなづさひそ来し
右ノ一首ハ、白紙ニ書キテ屋ノ壁ニ懸ケ著ケタリ。題シテ云ク、蓬莱ノ仙媛ノ作メル。謾ニ風流秀才ノ士ノ為ナリ*。斯凡客ノ望ミ見ル所ニアラズカト。
夏四月、大伴坂上郎女が賀茂の神社を拝み奉る時、相坂山を超え、近江の海を望見けて、晩頭に還り来たるときよめる歌一首
1017 木綿畳手向の山を今日越えていづれの野辺に廬りせむ吾等
十年戊寅、元興寺の僧が自ら嘆く歌一首
1018 白珠は人に知らえず知らずともよし知らずとも吾し知れらば知らずともよし
右ノ一首ハ、或ハ云ク、元興寺ノ僧、独リ覚リテ智多ケレドモ、顕聞スルトコロ有ラズ、衆諸狎侮リキ。此ニ因リテ僧此ノ歌ヲ作ミ、自ラ身ノ才ヲ嘆ク。
石上乙麿の卿の、土佐の国に配えし時の歌三首、また短歌
1019 石上 布留の尊は 手弱女の 惑ひによりて 馬じもの 縄取り付け 獣じもの 弓矢囲みて 大王の 命畏み 天ざかる 夷辺に罷る 古衣 真土の山ゆ 帰り来ぬかも
1020 大王の 命畏み さし並の 国に出でます はしきやし 我が背の君を
(1021)かけまくも 忌々し畏し 住吉の 現人神 船の舳に うしはきたまひ 着きたまはむ 島の崎々 依りたまはむ 磯の崎々 荒き波 風に遇はせず 障みなく み病あらず 速けく 帰したまはね もとの国辺に
1022 父君に 吾は愛子ぞ 母刀自に 吾は愛子ぞ 参上り 八十氏人の 手向する 畏の坂に 幣奉り 吾はぞ退る* 遠き土佐道を
反し歌一首
1023 大崎の神の小浜は狭けども百船人も過ぐと言はなくに
秋八月二十日、右大臣橘の家に宴せる歌四首
1024 長門なる沖つ借島奥まへて吾が思ふ君は千年にもがも
右の一歌は、長門守巨曽倍對馬朝臣。
1025 奥まへて吾を思へる我が背子は千年五百年ありこせぬかも
右の一歌は、右大臣の和へたまへる歌。
1026 百敷の大宮人は今日もかも暇を無みと里に出でざらむ
右の一首は、右大臣の伝へ云りたまはく、故の豊島采女が歌。
1027 橘の本に道踏み八衢に物をそ思ふ人に知らえず
右の一歌は、右大弁高橋安麿の卿語りけらく、故の豊島采女がよめるなり。但シ或ル本ニ云ク、三方沙彌、妻ノ苑臣ヲ恋ヒテ作メル歌ナリト。然ラバ則チ、豊島采女、当時当所ニ此ノ歌ヲ口吟ヘルカ。
十一年己卯、天皇高圓の野に遊猟したまへる時、小さき獣堵里の中に泄で走る。是に勇士に適値ひて生きながら獲らえぬ。即ち此の獣を御在所に献上るとき副ふる歌一首 獣ノ名ハ俗ニ牟射佐妣ト曰フ
1028 大夫の高圓山に迫めたれば里に下り来るむささびそこれ
右の一歌は、大伴坂上郎女がよめる。但シ奏ヲ逕ズシテ小獣死シ斃レヌ。此ニ因リテ献歌停ム。
十二年庚辰冬十月、太宰少弐藤原朝臣廣嗣が反謀けむとして軍を発せるに、伊勢国に幸せる時、河口の行宮にて内舎人大伴宿禰家持がよめる歌一首
1029 河口の野辺に廬りて夜の歴れば妹が手本し思ほゆるかも
天皇のみよみませる御製歌一首
1030 妹に恋ひ吾が松原よ*見渡せば潮干の潟に鶴鳴き渡る*
丹比屋主真人が歌一首
1031 後れにし人を思はく四泥の崎木綿取り垂でて往かむとそ思ふ*
独り行宮に残て*大伴宿禰家持がよめる歌二首
1032 天皇の行幸のまに我妹子が手枕巻かず月そ経にける
1033 御食つ国志摩の海人ならし真熊野の小船に乗りて沖へ榜ぐ見ゆ
美濃国多藝の行宮にて、大伴宿禰東人がよめる歌一首
1034 古よ人の言ひ来る老人の変若つちふ水そ名に負ふ滝の瀬
大伴宿禰家持がよめる歌一首
1035 田跡川の滝を清みか古ゆ宮仕へけむ多藝の野の上に
不破の行宮にて、大伴宿禰家持がよめる歌一首
1036 関なくば帰りにだにも打ち行きて妹が手枕巻きて寝ましを
十五年癸未秋八月の十六日、内舎人大伴宿禰家持が久邇の京を讃へてよめる歌一首
1037 今造る久邇の都は山河の清けき見ればうべ知らすらし
高丘河内連が歌二首
1038 故郷は遠くもあらず一重山越ゆるがからに思ひぞ吾がせし
1039 我が背子と二人し居れば山高み里には月は照らずともよし
安積親王の左少弁藤原八束朝臣が家に宴したまふ日、内舎人大伴宿禰家持がよめる歌一首
1040 久かたの雨は降りしけ思ふ子が屋戸に今夜は明かしてゆかむ
十六年甲申、春正月の五日、諸卿大夫安倍蟲麻呂朝臣が家に集ひて宴せる歌一首
1041 我が屋戸の君松の木に降る雪の行きには行かじ待ちにし待たむ
同じ月十一日、活道の岡に登り、一株松の下に集ひて飲せる歌二首
1042 一つ松幾代か経ぬる吹く風の声の清めるは年深みかも
右の一首は、市原王のよみたまへる。
1043 玉きはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとそ思ふ
右の一首は、大伴宿禰家持がよめる。
寧樂の京の荒墟を傷惜みてよめる歌三首 作者不審
1044 紅に深く染みにし心かも奈良の都に年の経ぬべき
1045 世の中を常無きものと今ぞ知る奈良の都のうつろふ見れば
1046 石綱のまた変若ちかへり青丹よし奈良の都をまた見なむかも
寧樂の京の故郷を悲しみよめる歌一首、また短歌
1047 やすみしし 我が大王の 高敷かす 大和の国は 皇祖の 神の御代より 敷きませる 国にしあれば 生れまさむ 御子の継ぎ継ぎ 天の下 知ろしめさむと 八百万 千年を兼ねて 定めけむ 奈良の都は 陽炎の 春にしなれば 春日山 御笠の野辺に 桜花 木の暗隠り 貌鳥は 間なくしば鳴く 露霜の 秋さり来れば 射鉤山 飛火が岳に 萩の枝を しがらみ散らし さ牡鹿は 妻呼び響め 山見れば 山も見が欲し 里見れば 里も住みよし 物部の 八十伴の男の うちはへて 里並みしけば* 天地の 寄り合ひの極み 万代に 栄えゆかむと 思ひにし 大宮すらを 頼めりし 奈良の都を 新代の 事にしあれば 大王の 引きのまにまに 春花の うつろひ変り 群鳥の 朝立ち行けば 刺竹の 大宮人の 踏み平し 通ひし道は 馬も行かず 人も行かねば 荒れにけるかも
反し歌二首
1048 建ち替り古き都となりぬれば道の芝草長く生ひにけり
1049 馴つきにし奈良の都の荒れゆけば出で立つごとに嘆きし増さる
久邇の新京を讃ふる歌二首、また短歌
1050 現つ神 我が大王の 天の下 八島の内に 国はしも 多くあれども 里はしも さはにあれども 山並の よろしき国と 川並の 立ち合ふ里と 山背の 鹿背山の際に 宮柱 太敷きまつり 高知らす 布當の宮は 川近み 瀬の音ぞ清き 山近み 鳥が音響む 秋されば 山もとどろに さ牡鹿は 妻呼び響め 春されば 岡辺も繁に 巌には 花咲き撓り あなおもしろ 布當の原 いと貴 大宮所 諾しこそ 我が大王は 君のまに 聞かしたまひて 刺竹の 大宮ここと 定めけらしも
反し歌二首
1051 三香の原布當の野辺を清みこそ大宮所定めけらしも
1052 山高く川の瀬清し百代まで神しみゆかむ大宮所
1053 吾が大王 神の命の 高知らす 布當の宮は 百木盛る* 山は木高し 落ちたぎつ 瀬の音も清し 鴬の 来鳴く春へは 巌には 山下光り 錦なす 花咲き撓り さ牡鹿の 妻呼ぶ秋は 天霧ふ 時雨をいたみ さ丹頬ふ 黄葉散りつつ 八千年に 生れ付かしつつ 天の下 知ろしめさむと 百代にも 変るべからぬ 大宮所
反し歌五首
1054 泉川行く瀬の水の絶えばこそ大宮所移ろひ行かめ
1055 布當山山並見れば百代にも変るべからぬ大宮所
1056 娘子らが続麻懸くちふ鹿背の山時しゆければ都となりぬ
1057 鹿背の山木立を繁み朝さらず来鳴き響もす鴬の声
1058 狛山に鳴く霍公鳥泉川渡りを遠みここに通はず
春日、三香原の都の荒墟を悲傷しみよめる歌一首、また短歌
1059 三香の原 久邇の都は 山高み 川の瀬清み 在りよしと 人は言へども 住みよしと 吾は思へど 古りにし 里にしあれば 国見れど 人も通はず 里見れば 家も荒れたり 愛しけやし かくありけるか 三諸つく 鹿背山の際に 咲く花の 色めづらしく 百鳥の 声なつかしき ありが欲し 住みよき里の 荒るらく惜しも
反し歌二首
1060 三香の原久邇の都は荒れにけり大宮人のうつろひぬれば
1061 咲く花の色は変らず百敷の大宮人ぞたち変りける
難波の宮にてよめる歌一首、また短歌
1062 やすみしし 我が大王の あり通ふ 難波の宮は 鯨魚取り 海片付きて 玉拾ふ 浜辺を近み 朝羽振る 波の音騒き 夕凪に 楫の音聞こゆ 暁の 寝覚に聞けば 海近み* 潮干の共 浦洲には 千鳥妻呼び 葦辺には 鶴が音響む 見る人の 語りにすれば 聞く人の 見まく欲りする 御食向ふ 味経の宮は 見れど飽かぬかも
反し歌二首
1063 あり通ふ難波の宮は海近み海人娘子らが乗れる船見ゆ
1064 潮干れば葦辺に騒く白鶴の妻呼ぶ声は宮もとどろに
敏馬の浦を過ぐる時よめる歌一首、また短歌
1065 八千桙の 神の御代より 百船の 泊つる泊と 八島国 百船人の 定めてし 敏馬の浦は 朝風に 浦波騒き 夕波に 玉藻は来寄る 白沙 清き浜辺は 往き還り 見れども飽かず 諾しこそ 見る人毎に 語り継ぎ 偲ひけらしき 百代経て 偲はえゆかむ 清き白浜
反し歌二首
1066 真澄鏡敏馬の浦は百船の過ぎて行くべき浜ならなくに
1067 浜清み浦うるはしみ神代より千船の泊つる大和太の浜
右ノ二十一首ハ、田邊福麻呂ガ歌集ノ中ニ出ヅ。
在下还没贴完呢~~~~~~