永正七年没有遣明船啊。查考佐久间重男《日明关系史的研究》一书中列出的一览表:六年细川派了一艘,正使不详,负责人是日后宁波事件的主角宋素卿。八年也有一次,了庵桂悟是正使,三只船,大内二只,细川一只。
楼主说的是哪一次。
唐寅之诗乃是被姬路藩河合氏所藏,彦九郎者乃是了庵桂悟所领三船中人,从唐寅诗中看出似乎曾两次来朝,难道上次尧夫寿蓂来朝也随行了吗?我所见关于彦九郎之事迹所载的乃是《邻交徴书》,这等日本文献国家图书馆确实也存有,楼主要是有耐心我看了国图的藏本加之史先生的遗著后再来讨论,以手上的资料来言只能提供彦九郎这等资料了
另外了庵桂悟由于刘六刘七举事的影响,乃是在南京奉表,断无五十人上北京奉表之事,而两次过苏州无非是宁波到南京往返所致,无甚稀奇。倒是宋素卿借修孔庙之事来贡时机恰当得幸武宗接见,得以在北京奉表。
我在一篇日文文章里看到一段记载,有个叫日比野丈夫的学者分析这位“重直彦九郎”的人是一个在堺从事日明贸易的商人。
原文主要写唐寅,稍长。现引用相关部分如下:
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/M41/M415228/5.pdf
(在第28、29页)
「唐寅の生涯と蘇州文壇」より
前略
五月十五日、日本人重直彦九郎の帰国にさいし、忽々の別れに詩を作って贈った。平凡社「書道全集」一七にみえるこの書は美しい。彦九郎はその詩によると二度目の帰国であったらしい。日比野丈夫氏の解説によれば堺あたりの日明貿易に従事する商人と考えられている。重直というのは小さく右上隔に書き添えられたもので諱でろうという。序と詩に
彦九郎日本に還る。詩を作りて之に餞す。座間に筆を走らすれば、甚だ工ならざるなり。
萍踪両度
中華に到り、
剣珮丁年
帝扆に朝し、
星辰午夜
仙槎を払ふ。
驪歌送別す三年の客、
鯨海邁やかに征く万里の家。
此の行徜し重来の便あらば、
琅玕一朶の花を折るを煩はさん。
とあり、二十歳ぐらいの帯剣した颯爽たる若者で、武宗に朝貢した人のように見える。この訪問は突然であり、短時間に作詩が要求されたらしい。書体の整って美しいのに反して詩は失律の嫌があり、珮の字のつくりを「風」と誤記している点があるのは、決して酔いや怠惰のせいではない。文人唐寅の名声は日本人の間にも高く、訪問依頼の客が極めて多かったことを示唆しているのである。
後略
唐寅的原诗
萍踪两度到中华,归国凭将涉历夸。
剑佩丁年朝帝扆,星晨午夜拂仙槎。
骊歌送别三年客,鲸海遄征万里家。
此行倘有重来便,须折琅玕一朵花
写诗时间是正德七年(1512年)
从诗上的时间来看,此公是宋素卿那船来的。可史老说他考证的是了庵船来的。真是晕死了。
史老的这篇文章收在他最后一个集子《鉴宝心得》里了
正德七年正是了庵的那次。宋素卿是正德四年。
以下是wikipedia日文版关于日明贸易词条解释的部分文字。
年表
注:派遣年次(明暦)、派遣者(正使)、の順。
1401年(建文3) 幕府(祖阿)
1403年(永楽元) 幕府(堅中圭密)
1404年(永楽2) 幕府(明室梵亮)
1405年(永楽3) 幕府(源通賢)
1407年(永楽5) 幕府
1408年(永楽6) 幕府
1408年(永楽6) 幕府
1410年(永楽8) 幕府
1433年(宣徳8) 幕府
1435年(宣徳10) 幕府
1453年(景泰4) 幕府
1468年(成化4) 幕府、細川氏、大内氏
1477年(成化13) 幕府
1484年(成化20) 幕府
1495年(弘治8) 幕府、細川氏
1509年(正徳4) 細川氏(宋素卿)
1512年(正徳7) 細川氏、大内氏(了庵桂悟)
1523年(嘉靖2) 大内氏(謙道宗設)
1523年(嘉靖2) 細川氏(鸞岡瑞佐)
1540年(嘉靖19) 大内氏(湖心硯鼎)
1549年(嘉靖28) 大内氏(策彦周良)
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