二階堂氏


【二階堂氏略史】

    二階堂氏原本是藤原伊東氏一族的工藤氏出身,初代家督二階堂行政因为出仕鎌倉幕府,建造了鎌倉二階堂屋敷,遂以二階堂为姓(真是有够变态的,希望是我翻译错了)。

    二階堂氏が須賀川周辺を領した時期は諸説あってよくわからないが、少なくとも室町時代、永享の乱で足利持氏が滅亡する頃までは鎌倉に在住し、領知である須賀川には代官を派遣していたと考えられている。また、永享の乱では二階堂氏は一度滅亡したと言われている。

二階堂氏の系譜が文書などから確実となるのは続義からで、宗続の子とされている人物である。この続義は享禄四年(1531)の寺の鐘銘に名が記されているのが確認されている。子の輝行の時には伊達氏の天文の乱がおこり、二階堂氏は田村氏と連合して伊達晴宗方の蘆名?岩城両氏に当たる体制を取ったが、ほどなく田村氏と緊張関係となり、そのころ敵対していた白河氏とは天文十七年(1548)半ばに和解している。

この頃には、既に二階堂氏は蘆名氏との間に従属的な連合形態をとるに至ったとされているが、時に反蘆名氏の体制も取っていたことが分かっている。しかし、伊達氏と蘆名氏が講和した永禄九年(1566)に二階堂盛義は会津に赴き、蘆名氏に従属するに至った。この時にのち蘆名氏の家督となる盛隆が人質となったと言われ。

盛隆が蘆名氏の家督を相続すると、蘆名氏と二階堂氏は関係を深め、田村氏への攻撃、また佐竹氏?白川氏との協調などを両氏が協同して行った。盛隆の父、二階堂盛義の死後は盛隆が二階堂家中の仕置を兼務したが、盛隆が家臣に殺された後は盛義の妻(伊達晴宗の娘、大乗院)が仕置に当たったという。

しかし、大きな後ろ盾である蘆名氏が伊達氏と戦って滅亡した後も、反伊達体制を崩さなかったために二階堂氏領は伊達氏に侵攻され、家臣団内部の切り崩しも激しいものがあった。そしてついに天正十七年(1589)十月下旬、伊達軍の攻撃によって須賀川城は落城し、二階堂氏は滅亡したのである。盛義の妻は岩城氏のもとに逃れ、その後佐竹氏を頼ったあと須賀川に戻り、この地で没したという。


二階堂氏系図


【二階堂氏の一族?家臣団】

?二階堂行親【にかいどう?ゆきちか 1570(元亀1)~1585(天正13)】
二階堂(蘆名)盛義二男。早世した。

?二階堂続綱【にかいどう?つぐつな 生没年未詳】
備前掾。続義の弟かという。永禄六年頃、領国内の無事について、岩城氏に感謝を表す書状を当主続義と共に二階堂一族の一人として書状を認めている。

?二階堂照重【にかいどう?てるしげ 生没年未詳】
修理亮。二階堂一族と思われる。二階堂続綱と共に岩城氏へ書状を送っている。

?二階堂照綱【にかいどう?てるつな 生没年未詳】
右京亮。この人物も二階堂一門と思われる。続綱?照重と共に岩城氏へ文書を送っている。

?二階堂(箭田野)行政【にかいどう(やだの)?ゆきまさ 1524(大永4)~1583(天正11)】
宮内大輔、但馬守。上の二階堂氏一族と同様、岩城氏への書状がみられる。二階堂氏の一族である箭田野氏系図では但馬守行政が存在するので、この人物かと考えられる。甥義正によって殺害された。『佐竹家臣系譜』所収の箭田野系図では「天正十一年行年六十歳生害」と記されている。

?箭田野義正【やだの?よしまさ 1565(永禄8)~1623(元和9)】
安房守。行義(行久とも、行政の兄)の子。大里城主。伊達政宗が二階堂氏を攻めたとき、大里城も攻めたが落城しなかった。秀吉の天下統一で城を明け渡し佐竹氏を頼り、佐竹氏の転封に従って秋田に移った。箭田野氏は二階堂氏一族で二階堂行光の子、行盛を祖とするという。

?箭田野行正【やだの?ゆきまさ 1592(文禄1)~1643(寛永20)】
義正の嫡男。出羽国院内に居住したという。

?保土原行藤【ほどわら?ゆきふじ 生没年未詳】
左近。入道して江南斎。二階堂行村が祖であり、現在の須賀川市保土原に住したため保土原と称した。のち伊達氏に属して三百石余を知行している。

?浜尾行泰【はまお?ゆきやす 1543(天文12)~1623(元和8)】
駿河、右衛門大夫。漸斎と号した。儀泰の子。慶長五年、伊達政宗による白石城(上杉氏の城)攻めに従軍した。

?浜尾盛泰【はまお?もりやす 生没年未詳】
行泰の嫡男。駿河。詳細は不明。

?浜尾(川島)宗泰【はまお(かわしま)?むねやす 生没年未詳】
豊前。行泰の次男で盛泰の弟。天正年中に伊達家に仕えて着座(伊達家の家格の一つ)となる。仙台城築城にも功があった。政宗の命によって姓を川島と改めた。

?守谷重清【もりや?しげきよ 生没年未詳】
釆女。二階堂家臣。下の守谷俊重との関係は不明という。天正十七年十一月、伊達家より知行を与えられた。

?守谷俊重【もりや?とししげ 生没年未詳】
筑後。伊達氏が二階堂氏を攻めたおり、家臣を率いて降伏したことが「奉公ヲ抽タルニ就テ」(「伊達治家記録」)、本領安堵に加えて、千貫文余りを加増された。


【参考文献】

『天栄村史』第2巻 資料編I 1986
『福島県史』第1巻 通史編I 1969
『仙台藩史料大成 伊達治家記録』1(1972)?2(1973)

『常陸太田市史編さん史料(十九) 佐竹家臣系譜』 1982
『戦国大名系譜人名事典 東国編』(新人物往来社、1985)