信长的五大军团长篇

 

 

柴田勝家の一族

勝家(?-1583.4.24)
権六。修理亮。室は不詳。継室は織田信秀の娘市。
土佐守勝義の長男で尾張国愛知郡の出身。はじめ織田信秀に仕え、後に信長の弟信勝(信行)の家老となる。弘治二年、信長の家老林秀貞と信勝を擁して信長の廃嫡を画策し謀反を起こす(稲生の戦い)が敗れ、降伏。翌年、信勝を見限り、信長に仕える。以後、信長に従い転戦し近江国長光寺城主。天正三年、越前一向一揆を鎮圧し北庄城主となり、北陸地方攻略の総司令官に任じられ、加賀?能登を平定。同九年、越中平定戦を開始し上杉景勝と対峙する。翌十年、本能寺の変では松倉城攻略の最中であり、光秀の討伐に参加できず、信長の後継者決定会議(清洲会議)では信長の三男信孝を擁するが、信長の嫡孫三法師(秀信)を擁した秀吉に指導権を握られ失敗。信孝、滝川一益らと結び秀吉と対立するが、翌十一年、賤ヶ岳の戦いで敗れ、居城北庄城を攻められ、自害した。辞世は「夏の夜の夢路はかなきあとの名を雲井にあげよ山ほととぎす」。享年は五十七?五十八?六十二と諸説ある。法名摧鬼院台岳観道。
勝敏(1568-83)
於国丸。権六郎。
勝家の長男(養子とも)。天正十一年、賤ヶ岳の戦いののち捕虜となり、近江国佐和山で斬首された。享年十六。
勝豊(?-1583.4.16)
伊介。伊賀守。室は稲葉貞通の娘。
吉田次兵衛(今井次兵衛とも渋川八左衛門ともいう)の子で母は勝家の姉。
勝家の養子となり越前国丸岡城四万五千石を領す。天正十年、清洲会議により近江国長浜城主となる。養父勝家と秀吉が対立すると、秀吉に長浜城を攻められ降伏。翌十一年、賤ヶ岳の戦いを前に京都東福寺で病死。
勝政(1557-83)
三左衛門。室は日根野高吉の娘。
佐久間盛次の三男で母は柴田勝家の妹。勝家の養子となる。天正十一年、賤ヶ岳の戦いで戦死。享年二十七。長男三左衛門勝重は北庄落城に際し外祖父日根野高吉の許に逃れ養育される。慶長四年、徳川家康に仕え上野国群馬?碓氷郡内に二千石を領す。元和元年の大坂夏の陣では平野口の戦いに参戦し、負傷するも首級二級を挙げ五百石を加増。寛永九年、五十四歳で死去。法名浄英。子孫は旗本として存続。
勝里
庄左衛門。茂左衛門。勝家の庶子という。父の死後、織田信長の二男信雄に仕え伊勢飯野郡浅田村を領す。後に松平忠吉に仕えるが浪人。子孫は尾張徳川家に仕える。
勝忠(?-1614.12.5)
長三郎。勝家の末子という。慶長十九年、死去。法名長光院勝忠開屋。
宮内少輔(1548-1615.6.29)
源吾。勝家の弟(庶子とも)という。元和元年、死去。享年六十八。法名清林院孤厳諒証。
勝春
五右衛門。勝家の庶兄の子で勝家に仕える。子の弥左衛門は尾張徳川家に仕えるが、その子五右衛門の代に無嗣断絶。

丹羽長秀の一族

長秀(1535-85.4.16)
万千代。五郎左衛門。越前守。室は織田信広の娘。
修理亮長政の二男で尾張国春日井郡児玉村の出身。早くから信長に仕え、主に内政面を担当。元亀二年、佐和山城主となり五万石を領す。天正三年、越前一向一揆を鎮圧し若狭国を与えられ、小浜城を居城とする。同十年、本能寺の変では、四国出兵のため信長の三男信孝と大坂にあり、光秀の娘婿織田信澄を大坂城に討ち、秀吉と合流し山崎の戦いで光秀を破る。その後の清洲会議では秀吉に与し、信長の嫡孫三法師(秀信)を擁立。会議後、近江国滋賀?高島郡を領し大溝城を居城とする。翌年の賤ヶ岳の戦いでは、秀吉に与し、勝家を滅ぼし、越前?若狭両国を与えられて北庄城主となる。同十三年、死去。享年五十一。法名総光寺大憐宗徳。
長重(1571-1637.閏3.6)
幼名鍋。五郎左衛門。加賀守。侍従。参議。室は織田信長の娘。
長秀の長男で母は織田信広の娘。美濃国岐阜で出生。天正十一年、賤ヶ岳の戦い、翌十二年の小牧の戦いでは父の名代として参戦。翌年、父の遺領を継ぎ、越前?若狭?加賀国内二郡百二十三万石の領主となる。しかし同年の越中佐々成政攻めで家臣が軍律違反を犯し、越前?加賀両国を没収。同十五年の九州攻めでも軍律違反で若狭国を没収され、加賀国松任四万石に移された。文禄元年、文禄の役で戦功を挙げ、八万石を加増され小松に移る。秀吉の死後は家康に仕えるが、慶長五年、私恨により能登前田利長と争い、関ヶ原の戦いに出兵しなかったため失領。同八年、許され常陸国古渡に一万石を与えられた。大坂の陣で戦功を挙げ、元和五年、常陸国江戸崎一万石を加増。同八年、さらに三万石を加増され陸奥国棚倉赤楯に移封。寛永四年、同国白川?石川?田村?岩瀬四郡の十万七百石を領し白川城主。同十四年、死去。享年六十七。法名大鄰寺傑俊浄英。長男光重が継ぎ、同国二本松十万七百石に転封。子孫は二本松藩主として存続。
長正(1576-1630)
宮松。備中守。
長秀の二男で母は堤某の娘。秀吉に仕え、越前国藤枝城主となり五万石を領す。慶長五年、関ヶ原の戦いで西軍に属し失領。後に甥の光重に仕える。
高吉(1579-1670.7.18)
仙丸。宮内少輔。
長秀の三男で母は杉若越前守の娘。はじめ豊臣秀長の養子となるが、のち藤堂高虎の養子となる。文禄元年の文禄の役が初陣。以後、養父高虎に従い徳川家康に仕える。慶長十三年、伊予国今治城二万石を領す。寛永七年、高虎が死去し、訃報に接した高吉は江戸に向かうが、高虎の実子高次の家臣に阻まれ、家督は高次が継ぐ。以後、高次に疎まれ伊賀国名張二万石を与えられるも、一門ながら家臣の扱いを受け冷遇される。しかし、高吉は宗藩に対し忠誠を尽くし、寛文十年、死去。享年九十二。法名徳蓮院徳公寿栄。長男長正(宮内家)が一万五千石、二男長留(隼人家)が三千石、三男長則(九衛門家)が千五百石、四男長之(主計家)が五百石を継ぎ、子孫は宗藩の重臣として存続。
直政(1580-?)
越後守。
長秀の四男。蜂谷出羽守の養子となる。
長俊(1583-1612.11)
長門守。
長秀の五男で母は杉若某の娘。徳川秀忠に仕えるが、病のため致仕。慶長十七年、死去。
長次(1583-1619)
熊千代。左近。左近将監。妻は坂井直家の娘。
長秀の六男。徳川秀忠に仕え、大坂の陣に参陣。元和二年、常陸国江戸崎に千石を与えられる。同五年、死去。法名道円。長男三左衛門長吉?二男六左衛門長和の子孫が旗本として存続。
長忠
将監。長政の長男で長秀の兄。
秀重(?-1615.5)
九兵衛。長政の三男で長秀の弟。元和元年、大坂夏の陣の平野口の戦いで戦死。

豊臣秀吉の一族

秀吉(1537.2.6-98.8.18)
藤吉郎。筑前守。関白太政大臣。
織田信秀に仕えた足軽木下弥右衛門の子で尾張国中村出身。
信長に仕え、天正元年の近江浅井氏攻めで戦功を挙げ、浅井氏滅亡後、その旧領近江国北三郡を与えられる。同十年の本能寺の変では中国地方侵攻のため備中国高松城を包囲中であったが、毛利氏との講和に成功し、山崎の戦いで明智光秀を破る。戦後の清洲会議で信長の嫡孫三法師(秀信)を擁し政権を握る。翌年、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで滅ぼし、翌十二年、対立していた信長の二男信雄?徳川家康と講和。同十三年、四国長宗我部氏、同十五年、九州島津氏、同十八年、小田原北条氏を平定し天下を統一する。文禄元年、慶長元年の朝鮮出兵に敗れ、慶長三年、伏見城で死去。享年六十二。法名国泰祐松院霊山俊竜。
秀勝(?-1576.10.14)
石松丸。
母は側室南殿で秀吉の長男という。天正四年、夭折。
鶴松(1589.5.27-91.8.5)
幼名棄。
秀吉の長男で母は側室浅井長政の娘淀。
山城国淀城で出生。しかし生まれつき病気がちで、天正十九年、三歳で夭折。法名祥雲院玉厳麟公。
秀頼(1593.8.3-1615.5.8)
幼名拾。権大納言。内大臣。右大臣。
秀吉の二男で母は側室浅井長政の娘淀。
慶長三年、秀吉の死に際し家督を継ぎ、豊臣政権の後継者となる。同五年、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利したため、摂津?河内?和泉六十万石大坂城主に転落。同八年、家康の孫娘千姫と結婚。元和元年、大坂夏の陣で家康に大坂城を攻められ自害。享年二十三。法名嵩陽寺秀山。長男国松は大坂落城後、伏見に潜伏していたところを捕縛され、京都で斬首された。享年八。法名漏世院雲山智品。
また秀頼と子の国松は大坂城を脱出し薩摩国に逃亡したとも伝わる。秀頼は薩摩国島津氏に保護され数人の子を得たという。谷村氏の娘さととの間に木場時忠を得たといい、子孫の休之丞貞長は西郷隆盛に従い西南戦争で戦死したという。また天草の乱の首謀者羽柴天四郎秀綱は秀頼の子というが、これは天草四郎時貞を豊臣氏の子孫と称し反徳川派の浪人を乱に参加させるための喧伝と思われる。国松は豊後国日出藩主木下氏に保護され、二代藩主縫殿助延由は国松であるという。
秀勝(1568-85.12.10)
幼名次。右少将。参議。中納言。
信長の四男で豊臣秀吉の養子。天正十年、山崎の戦いに参戦。戦後、丹波国亀山城主となる。翌年より病を患い、同十三年、死去。享年十八。法名瑞林院賢巌才公。
秀勝(1569-92.9.9)
小吉。少将。中納言。
三好吉房の子で母は秀吉の姉智。
秀吉の養子となり、天正十三年、先に秀吉の養子となっていた信長の四男秀勝が死去したため、その遺領を継ぎ、丹波国亀山城主となる。同十五年、九州平定に従軍。同十七年、知行不足を秀吉に訴えて怒りを買い、失領。しかし、すぐ許され越前国敦賀城五万石を与えられる。同十八年、小田原征伐で戦功をあげ甲斐?信濃両国を領すが、翌年美濃国岐阜に転封。文禄元年、朝鮮出兵に際し兵八千を率い渡海するが、唐島(巨済島)で病死。享年二十四。法名光徳院陽厳。
秀次(1568-95.7.15)
次兵衛。孫七郎。関白。初名信吉。
三好吉房の子で母は秀吉の姉智。
はじめ三好康長の養子となる。天正十二年、小牧?長久手の戦いでは総大将を務めるが大敗。同十三年、紀伊?四国平定で戦功をあげ近江国四十三万石を与えられる。同十八年、小田原征伐で戦功をあげ、尾張?北伊勢五郡を領す。翌十九年、秀吉の長男鶴松が死去すると、秀吉の養嗣子となり、関白職を受け継ぐ。しかし、文禄二年、秀吉に二男秀頼が誕生すると疎まれ、同四年、関白職を剥奪され、高野山に追放。自害させられた。享年二十八。法名善正寺高厳道意。
秀長(1540.3.2-91.1.22)
小一郎。美濃守。権中納言。一時名を長秀に改める。
秀吉の異父弟で父は筑阿弥。兄秀吉に従い転戦。天正八年、但馬国平定に成功。同十一年、賤ヶ岳の戦いで戦功をあげ、但馬?播磨両国を与えられ姫路城主。同十三年には紀伊根来?雑賀衆征伐に成功し、和泉?紀伊両国を拝領。さらに四国攻略の総大将になり渡海。長宗我部氏を降し大和国を与えられ郡山城主となる。同十五年の九州征伐には兵一万五千を率い島津軍を撃破。凱旋後、従二位権大納言に昇り、大和大納言と称される。しかし、同十七年、病を患い、翌十八年、死去。享年五十一。法名大光院春岳紹栄。
秀保(1579-95)
辰千代。参議。侍従。権中納言。
三好吉房の子で母は秀吉の姉智。
天正十年、秀長の養子となり、同十六年、秀長の長女おきくと結婚。秀長の死後、その遺領を継ぎ、大和中納言と称される。後に病を得て、十津川で療養するも同地で死去。一説には自害したとも秀保の乱行を憂いた家臣が秀保を抱きかかえ入水自殺したともいう。享年十七。

滝川一益の一族

一益(1525-86.9.9)
彦右衛門。左近将監。伊予守。入庵と号す。
久助一勝の二男で近江国出身。
若くして一族の高安某を殺害したため出奔。後に信長に仕え、伊勢?伊賀侵攻に活躍し北伊勢五郡を領す。信長の二男信雄に属し伊勢北畠氏を滅ぼし、伊勢国長島城主となる。天正十年、甲斐武田氏攻めでは先鋒を務め活躍。武田氏滅亡後は関東管領として上野一国?信濃国内二郡を与えられ、上野国厩橋城主となり小田原北条氏と対峙。本能寺の変では、変を知った北条氏直に攻められ(神流川の戦い)敗退。翌十一年、柴田勝家?織田信孝らと組み、秀吉と対立するが、降伏。近江国内五千石を与えられた。同十二年、小牧?長久手の戦いでは尾張国蟹江城を攻略するが、徳川家康?織田信雄軍に奪回される。戦後、三千石を与えられたが、越前国大野に引退し、同十四年、死去。享年六十二。法名道栄。
一忠
三九郎。
一益の長男。父とともに信長に仕える。天正十二年、蟹江城奪回の不手際が秀吉の怒りを買い追放される。子の三九郎一積ははじめ中村一角に仕えるが、叔父一時が死去しその子一乗が幼かったため一時の遺領二千石の内千七百五十石を継ぐ。後に一乗に七百五十石を返し千石を知行。寛永九年、妻が真田昌幸の娘だった縁で真田信繁(幸村)の娘あぐり(蒲生郷喜の妻)を養女としていた事を咎められ改易された。しかし子の三九郎一明が再度、旗本として召し出され子孫は旗本として存続。
一時(1568-1603.6.2)
八助。久助。
一益の二男。父とともに信長に仕え、伊勢国鈴鹿郡亀山?近江国甲賀に領地を与えられる。天正十三年、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家に属し、失領。翌年、秀吉より一万二千石で召し出される。文禄元年、家康に属し下総国内二千石を与えられる。慶長五年、関ヶ原の戦いに出陣。同八年、死去。享年三十六。子の久助一乗が継ぎ子孫は旗本として存続。

明智光秀の一族

光秀(1528-82.6.13)
十兵衛。日向守。
安芸守光綱(光隆?光国)の長男。父光綱は若くして死に光秀は叔父光安に養育される。弘治二年、斎藤義竜の攻撃で落城し光安は戦死。光秀は諸国遍歴の後に越前朝倉氏に仕える。後に朝倉氏を頼っていた足利義昭と信長との折衝役を務め、義昭の上洛に尽力。元亀二年、信長より近江国滋賀郡を与えられ、坂本城主となる。天正元年、義昭が追放されると、同三年、丹波攻略の総司令官に任じられ、同七年、丹波平定に成功、翌年、丹波一国を加増され亀山城主。同十年、信長より西国攻略中の豊臣秀吉の援軍を命じられたが、その途次、本能寺に寄宿中であった信長を奇襲し自害させた(本能寺の変)。しかし、秀吉に山崎の戦いで敗れ、坂本城に敗走する途中、小栗栖で土民に襲撃され負傷。側近溝尾庄兵衛茂朝の介錯で自害した。享年五十五。法名主一院明叟玄智。
光慶(1569-82.6.13)
十兵衛尉。
光秀の長男で母は妻木範煕の娘。生来病弱で本能寺の変の直後に病死。享年十四。家臣隠岐五郎兵衛惟恒が殉死したという。
定頼
自然丸。十二郎。
光秀の二男という。筒井順慶の養子となるというが不明。
光安(?-1556.9.26)
兵庫助。宗宿と号す。
光秀の叔父。美濃斎藤道三に仕え、美濃国明智城主。道三と子の義竜の争いで道三方に与したため、義竜に居城を攻められ、甥の光秀を脱出させ自害した。
光春(1537-82.6.14)
弥平次。左馬助。名は秀満と伝わる。妻は光秀の娘。
光安の子というが、光秀の甥とも女婿ともいう。はじめ三宅弥平次を称し、光秀の娘を妻とし明智姓を名乗る。光秀の丹波攻略に従い活躍し丹波国福知山城主。天正十年、本能寺の変では先鋒を務め本能寺を焼き討ちにする。変後、安土城を占領し守衛につくが、光秀が山崎の戦いで敗北すると、光秀の妻子を保護するため近江国坂本城に退去。しかし堀秀政に城を包囲され、城内にあった光秀秘蔵の名刀?名茶器を秀政に贈り、光秀の妻子を刺殺。自身も城に火を放ち自害した。享年四十六。子の三宅藤兵衛重利は光秀の娘玉(細川忠興の室)の縁により細川家に保護される。慶長五年、関ヶ原の戦いで玉が自害した事もあり、細川家を退去し肥前国唐津藩主寺沢家に仕える。寛永十四年、天草の乱が起きると、富岡城代として一揆軍と戦い戦死した。子の藤右衛門は細川光尚に仕える。
光久(1516-82.6.14)
次右衛門。長閑と号す。
光秀の叔父。光秀に仕える。天正十年、坂本城で戦死。享年六十七。
光忠(1540-82)
二郎四郎。次右衛門。治右衛門。妻は光秀の娘。
光久の子。光秀に従い丹波攻略に活躍。信長にその功を賞賛され脇差を下賜される。天正十年、本能寺の変では二条城の攻略を命じられるが、銃弾を受け負傷。治療のため知恩院に入るが、光秀の敗死を知り、自害した。享年四十三。子の十郎左衛門光近も父に従い二条城攻略に参戦。信長の五男勝長を討ち取ったという。


主要参考文献

『新訂寛政重修諸家譜』 続群書類従完成会
『系図纂要』 名著出版